おふでさき号外について調べてみました。
目次
-おふでさきを読む 澤井勇一 p186~187より引用
そこで、『おふでさき』には、正冊と外冊とよぶものがあるということ、さらには、号外というものがあるということに、すこしふれておきたいと思います。『おふでさき』号外については、『稿本天理教教祖伝』の明治七年(一八七四年)一二月のところですが、
翌二十四日(陰暦十一月十六日)朝、教祖は、
にち/\に心つくしたものだねを 神がたしかにうけとりている
しんぢつに神のうけとるものだねわ いつになりてもくさるめわなし
たん/\とこのものだねがはへたなら これまつだいのこふきなるそや
(おふでさき号外)
と、詠まれた。(『稿本天理教教祖伝』120一121ページ)
と記されています。この三首のおうたのあとに、「おふでさき号外」と書かれているように、これが、『おふでさき』の号外です。しかも、この『おふでさき」号外のおうたは、初代真柱様の「稿本教祖様御伝」には、
夫(そ)レヲ 桝井 辻 中田 堀內 西田 松尾 並枩村ノ釜屋(なんまつむらノかまや) 村田等エ遣(つか)ハサレタリ (『復元』三三号 五六ページ)
と記されています。このことは、この三首のおうたは、一首一首ばらばらではなく、三首でもって、ひとつのまとまりをなしている、ということを示しています。
この三首のおうたには、「おうた七番 心つくしたものだね」として、メロディーがつけられていて、いろいろな機会にうたわれる、すてきなおうたです。この三首のおうたが、ひとつのまとまりをもっている。このことは、おうたの区分、区切りを考えるとき、ひとつのヒントになります。
この「号外」というのは、一七号、一七一一首のおうた以外の、おやさまのお筆になるおうたである、ということです。
おふでさき号外の意味
毎日の生活で心を尽くすとは、神一条で通るこ とであり、それは人をたすける心でもある。それが物種となれ ば、神がしっかりと受け取り、いつまでも腐ることもはなく、 末代のものとなる。
逸話(15.この物種は)の中で山中忠七に授けられた「永代の 物種」は「確かな証拠」として、これを具体的な形として見せ られ、道を通る人たちの不安を取り除き、励みを与えて下さっ ているとも考えられる。
教祖が貧のどん底の中を通られていた時、山中忠七は毎日一 升の米を担いでお屋敷に通われていたという。それを毎日心待 ちにされていたこかん様を見て「それだけ喜ばれるのなら、いっ そ五斗俵を持ってこよう」と考えたが、教祖は「毎日毎日、こ うして運んでくれるのが結構やで。」と言われている。ものだ ねと言うものは、毎日の繰り返しが最も大切なのだと教えられ ている。
(平成 25 年度公開教学講座「信仰に生きる」:『逸話篇』に学ぶ(2) 第5講:15「この物種は」 おやさと研究所准教授 森 洋明 Yomei Mori より抜粋)
「山村御殿のふし」について(稿本天理教教祖伝より抜粋)
石上神宮の神職との問答があって後、奈良県庁から、仲田、松尾、辻の三名に対して差紙がついた。三名が県庁へ出頭すると、社寺掛から、別々に取調べ、信心するに到った来歴を問い質した。その時、社寺掛の稲尾某は、十二月二十三日(陰暦十一月十五日)に山村御殿へ出張するから、そこへ教祖を連れて来い、と命じた。山村御殿とは円照寺の通称である。
円照寺は、奈良県添上郡帯解村大字山村にあり、その頃、伏見宮文秀女王の居られた所である。このような尊い所へ呼び出したなら、憑きものならば畏れて退散する、と、考えたからであろう。
教祖は、呼出しに応じ、いそ/\と出掛けられた。
お供したのは、辻忠作、仲田儀三郎、松尾市兵衞、柳本村の佐藤某、畑村の大東重兵衞の五名であった。途中、田部村の小字車返で、ふと躓いて下唇を怪我なさった。心配するお供の人々に対して、教祖は、「下からせり上がる。」と、仰せられ、少しも気になさらなかった。
円照寺へ着くと、午後二時頃から、円通殿と呼ばれる持仏堂で、中央に稲尾某が坐り、石上の大宮司と外に一名が立ち会い、主として稲尾某が取調べに当った。稲尾が、いかなる神ぞ。と、問うと、その言葉も終らない中に、神々しくも又響き渡るような声で、「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや。」と、仰せられた。稲尾は、其方、真の神であるならば、此方が四、五日他を廻って来る間に、この身に罰をあてゝみよ。と、言った。
その途端、教祖は、「火水風共に退くと知れ。」と、言い放たれた。稲尾は、これは神経病や、大切にせよ。とて、医者に脈をとらすと、医者は、この人は、老体ではあるが、脈は十七、八歳の若さである。と、驚いた。
それから、今日は芸の有るだけをゆるす。と言われて、扇を一対借りて、辻の地で、仲田が手振りをして、陽気に四下り目まですますと もう宜しい。と、言うた。まだ、あと八下りあります。と、続けようとしたが、強って止められ、茶菓の馳走になって帰られた。
これから後、県庁は、お屋敷へ参拝人が出入りしないよう、厳重に取り締り始めた。
翌二十四日(陰暦十一月十六日)朝、教祖は、
にち/\に心つくしたものだねを
神がたしかにうけとりている
しんぢつに神のうけとるものだねわ
いつになりてもくさるめわなし
たん/\とこのものだねがはへたなら
これまつだいのこふきなるそや
(おふでさき号外)と、詠まれた。
二十五日(陰暦十一月十七日)になると、奈良中教院から、辻、仲田、松尾の三人を呼び出し、天理王という神は無い。神を拝むなら、大社の神を拝め。世話するなら、中教院を世話せよ。と、信仰を差止め、その上、お屋敷へやって来て、幣帛、鏡、簾等を没収した。
このふしの前後に誌された第六号には、
このよふの月日の心しんぢつを しりたるものわさらにあるまい
おふでさき (六 9)
と、初めて月日と誌され、
このよふのしんぢつの神月日なり あとなるわみなどふくなるそや
おふでさき (六 50)
との御宣言と共に、「十二月廿一日よりはなし」とあるお歌(六 55)からは、これまで用いられた神の文字を月日と置きかえて、一段と親神の理を明かされた。
稿本天理教教祖伝より抜粋