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「心を澄ます」って、完璧じゃなくていい。失敗だらけの日常で見つける、神様とのつながり

毎日を「心を澄ます」こと。そう決めていても、実際は反省ばかりで、気づけばまた「ほこり」を積んでしまう。そんな悩みを抱えているのは、あなただけではありません。

今回ご紹介するのは、青年会の連載『澄ましびと』から、とある大教会で暮らす青年会員さんの等身大の物語です。完璧に澄まそうと力むほど泥が入ってしまう葛藤と、それでもなお神様が自分を使ってくださるという「安心感」について、ぜひ一緒に考えてみませんか。

「ほこり」を積みながら、それでも払おうとする毎日

草刈り一つとっても、「汚れたくない」という自分可愛さの心に気づいて反省したり、夫婦で言い合ってしまったり。山﨑さんは「自分は『澄ましびと』ではなく『澄まぬ人』です」と笑います。

けれど、彼が大切にしているのは「澄ませきること」ではなく、「何度でも心を定め直すこと」でした。ほこりを積んでしまっても、「掃除しなあかんな」と気づく。その繰り返しこそが、信仰の道を通るということなのかもしれません。

「同じ過ちを繰り返してたら、信用してもらえないじゃないですか。だからもう、僕にとって『心を澄ます毎日』は、『心を定める毎日』なんですよ」

「しよう」と思った瞬間、泥が入る。だから目指すのは「たまたま」

トイレ掃除でも、「徳を積もう」「やってあげている」という意識が先行すると、それはもう純粋な誠ではなくなってしまいます。山﨑さんが目指しているのは、「気づいたらやってた」という自然な心掛けです。

欲を離れた日常のふとした巡り合わせの中で、誰かのために手が動いたとき。その時こそが、親神様・教祖(おやさま)に使っていただいていると実感できる、一番嬉しい瞬間だと言います。

神様は見捨てない。「使ってもらえる」という安心を胸に

どれだけほこりを積んでも、計算を超えたところで神様は使ってくださる。その手応えが、彼がこの信仰を続けていく大きな理由です。「見捨てられていない」という安心感があるからこそ、また一から心を定め直して、明日を歩むことができます。

完璧な人なんていません。失敗しても、反省が遅くても、その「払おうとする誠」を神様はきっと見ていてくださいます。

山﨑さんの素直で温かい信仰の歩み、ぜひ元の記事でも詳しく読んでみてください。

元記事(【総会特別企画】澄ましびと vol.〔2〕|自分の心に矢印を向けるのは、いつも遅い。それでも、神様は使ってくれる。 – FRAGRA)はこちら

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