同じ「借り物」なのに、なぜ感覚が違うの?
皆さんは、何かを「借りる」とき、どんな気持ちになりますか?「借りている物だから大切にしよう」と思う人もいれば、「自分の物じゃないから、そこまで丁寧に扱わなくてもいいかな」と感じる人もいるかもしれません。
相手との関係性や、借りた時のシチュエーションによって、私たちの「借り物」に対する感覚は不思議と変わるものです。実はこの感覚の差こそが、私たち信仰者が日々の布教や対話において大切にすべきポイントなのかもしれません。
教えを伝える時に「自分」はどう関わるのか
教えを伝える際、迷うことはありませんか?「自分の考えを入れず、教えられた通りに話すべきだ」という意見もあれば、「自分の心のままに語るのが大切だ」という考えもあります。
確かに、字句をなぞるだけでは心に響かないかもしれません。かといって、個人の思いだけで語れば教えの本質から離れてしまう恐れもあります。大切なのは、その「間」にある場所なのかもしれません。
「言葉の理を拵(こしら)えてこそ、八方である」
(おさしづ 明治37年11月2日)
「内実」に分け入るための心づくり
教祖(おやさま)のお言葉を虚心に受け取りつつ、それを自分自身の生きる経験の中で繰り返し味わうこと。それはまるで大地を耕すように、歳月をかけて「教えという種」を自分の心の中で育てていく作業です。
言葉を尽くすこと以上に、その奥にある親神様の「親心」を届ける。そのための「言葉の理」を拵える努力こそが、私たちの成人への歩みそのものなのでしょう。
より深くお道のお話に触れたい方は、ぜひ 元記事(言葉の理を拵える – 成人へのビジョン 48 | 天理時報オンライン)はこちら から全文をお読みください。

