成人について思うところを記しておこうと思いましたので記します。
茨木基敬と泉田藤吉の出会い
教祖のお姿を拝せた時代、大阪に茨木基敬(いばらぎもとよし)という人がいました。大きな銀行家の次男として生まれ、悠々自適に過ごしていました。のちに塩物屋(あいもの)を営む茨木家に婿に入られます。
茨木氏がお道と出会うのは、商売のなかで、売掛金約五十円(現在の100万ぐらい)を回収に園山という家に通っているなかで、神様の話を聞いたことが初めでした。
その時、基敬には四歳の長女がおり、長患いからヒーヒーと泣いて暮らしていました。園山から天理教をすすめられてはいましたが、信用できず話はなかなか耳に入らなかった。
それから数ヶ月後、長女が二晩の間、痙攣を起こして今か今かと死を待つような時を過ごすに至り。藁をも掴む思いで、園山におたすけをお願いした。そこで園山は空堀で蒸し芋を売りながらおたすけに歩む泉田藤吉(いずみだとうきち)のもとに二人で向かった。
そこでは泉田から「ようやって来た。その心を受け取って、子供は治っているから安心しなぁ」と仰せられ、それから、かしものかりものの話と、元始まりの話を、一時間ほど聞かせてもらった。
しかし商売人の茨木には、それよりも冷たくなってしまった芋が気になって仕方がなかった。この人は本当に優しい人だ、自分の商売を横にして私のためにと思ったそうです。
話も済んで、それから家にかえると、娘の状態はよくなっていた。生まれてから四年、こんな安らかな状態は初めてだった。次の日は娘の誕生日だった。赤飯を炊いてお祝いをした。
がしかし、次の日になって容体が急変し、また痙攣が始まった。そこで茨木氏は再度、泉田氏のところへ駆けつけた。「娘が死にかかっています。たすけてください」と伝えると、「前回のようにはいかんぞ」と言われた。
「娘をたすけていただいて、数日たっとる。その数日たっているだけの、成人がなければ御守護はいただけん」と泉田は言ったそうです。そこで、茨木は思案し、これから、お道一条で歩むことを決意したそうです。「そうか!ほんなら御守護いただいているわ」との言葉を受けた。その後、前回と同様に、神様の話を聞かせてもらってから自宅に帰ると、娘はすやすやと眠っていた。ここから茨木氏は信仰し始めるのです。
※高野友治「天理教伝道史1」天理教道友社113〜115頁
ならびに高野氏の講演録を参考
信仰者として、御守護を頂戴するために、何をすれば良いのか、信仰しているお互いは、気になるところです。この逸話は単に前世で、悪いことをしたから、不都合なことを見せられているというよりも、陽気ぐらしへ導こうとされる親神様の思召を土台にして、お話が展開されているのだと思います。
人生に不都合なことが起こるのは、決して罰を与えようとの、神の思いではなく。たすけてやりたい、陽気ぐらしを、させてやりたいという、子供の成人を望まれる、親心からみせられるものです。
そして、その成人とは、まず「人をたすける心」に焦点があると思います。茨木氏の人を助ける心定めに御守護があった。ここに天理教における心の成人のポイントがあると思います。
もう一つのポイントは、目の前の出来事から親心と感じ取れるかにあると思います。道を歩んだ諸先輩方の逸話にふれると、目の前におこる不足の事態から、神の思いを汲み取れるかに、この信仰の醍醐味があるかと感じます。
成人には二つのポイントがある
それは「人をたすける心」「神様のおもいをくみとる」ということです。
神様のお言葉から成人について考える
次に神様のお言葉から成人について考えていきたいと思います。
教祖が記された『おふでさき』では、
にち/\にすむしわかりしむねのうち
せゑぢんしたいみへてくるぞや(6-15)
お道における成人とは、日々に心が澄み、成人するにしたがって、親神の真意がわかるようになることが明確に語られます。
これらのおうたから明らかなことは、
まずは自らの心を澄ますということ、そしてその結果、親神様の心がみえてくるという関係性があきらかになりました。
でも、目には見えない心が澄んでいるのかどうかをどのように判断すれば良いのでしょう。その基準については「おさしづ」で以下のように語られています。
人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。
【明治二十年三月二十二日】
腹が立たないことが、心が澄んだといえる一つの基準になると教えられます。
成人のプロセス ①諭し悟り
では、心を澄ますために、私たちは何をすれば良いのでしょうか。
「おふでさき」のなかでは、
これからハ水にたとゑてはなしする
すむとにごりでさとりとるなり (3-7)
しんぢつに神の心のせきこみわ
しんのはしらをはやくいれたい (3-8)
このはしらはやくいれよとをもへども
にごりの水でところわからん (3-9)
この水をはやくすまするもよふだて
すいのとすなにかけてすませよ (3-10)
このすいのどこにあるやとをもうなよ
むねとくちとがすなとすいのや (3-11)
このはなしすみやかさとりついたなら
そのまゝいれるしんのはしらを (3-12)
神様の思召を諭し悟り合うことによって、心が澄むと教えられます。
まずは神様の話を聞くこと。そして神様の思召を心に治めるという順序がここでになるかと思います。
成人のプロセス ②修行 人のために働く
親神様の思召を心に治めるということを、「理が分かる」「心を磨く」というおさしづの言葉でみつめると、「親もと」を離れることを示唆されます。
「おさしづ」に
たゞ親のねきに居たばかりでは、何も知らず/\、一つの理分からん。世上の理辛い理分かりてこそ、精神結んだる理も分かる。
明治三十四年九月二十八日 梅谷とみゑ修行のため世界へ奉公に暫時出す願
修行という、心の身を磨きに出るのや。修行、大切に扱うては修行にならん。そら水汲みや、掃除や、門掃きやと、万事心を磨くのが修行。そこでさしてくれるよう。
明治二十三年三月十七日(陰暦正月二十七日)飯降政甚大祭に帰りしに付、又々神戸へ出越すの願
古今東西、親もとを離れ苦労を知ると、親のありがたさや、真実を感じることができるものです。水汲みや、掃き掃除、門掃き、人の裏方ともいえる務めを果たすことで、今まで見えていなかったことが見えるようになってくるのです。
神様の思いをたずねる
人は上手くいかないとき、自分を責めたり、他人を恨んだり、環境に不足をしてしまいがちです。心の向きを変えれば、鮮やかなご守護をみせてただくことはわかってはいても、なかなか心の向きを変えることは難しいものです。
反対に上手く進んでいるときには、自分を責めたり、他人を恨んだり、環境に不足をすることはありません。ヨット船で例えると、うまく進んでいるときは、帆で風を受けとめている状態と思うのです。しかし、時が経てば風の向きや強さも変わります。風が変われば、風が受けられるように帆の角度を変えなくてはいけません。風を受けられず船が前に進まないとき、それは「神様の思いはどこにあるのか?」と神様の思いを探す時だと私は思うのです。風は目には見えませんが、確かにあるものです。
そして、神様の思いも目には見えませんが、確かにあるのです。上手くいかないときは、神様を感じられるチャンスなのです。それを感じるには「神様の思いはどこにあるのか?」と心の帆を張ることから始めてはいかがでしょうか。
心を澄むと神様の思召を汲み取ることができるようになる。どんななかにあっても、神様の御守護を感じられるようになり、安心の世界に身を置くことができ、喜びを見出す歩みが進められるようになるのです。
二代真柱様の俳句
「寒くとも春を忘れぬ梅の花」
寒い厳しいなかにあろうとも、喜びを忘れない。どんななかにあっても喜びを第一にして歩む。おつとめ着に、梅鉢が刺繍されているように、胸に抱えて歩んでいきたいものです。
いつまでしん/\゛したとても やうきづくめであるほどに