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郡山大教会こおりやまだいきょうかい)-天理教の教会史-

初代会長の入信

明治19年(1886)陰暦正月、郡山大教会初代会長平野楢蔵は、始めて「おぢば」に帰った。教祖は、前日、「明日は、このやしきにどんな者を連れて帰るや分からんで」とおおせられていたという。

初代会長は、弘化2年(1845)河内国恩智村で、森石松、スワの間に生まれたが、10歳で両親に死別、姉しかと共に親戚で大きくなった。長じて俠客の群に入り、命知らずの性分から頭角を現わし、「恩智楢」と呼ばれたが、明治13年(1880)、大和国郡山洞泉寺町で貸座敷業を営む平野富蔵の養子となり、長女とらと結婚、家業を継いだ。明治17、18年頃、神経病を患った時、姉夫婦からお道の信心をすすめられた。姉の夫清次郎は、明治9年失明したところを助けられて、熱心に信仰していた。

ようやく外出できた恩智楢が河内国高安村で賭博の最中、突然の発作で倒れた。姉夫婦の頼みで教興寺村の講元宅において、三座のお願いづとめがつとめられたが、水行した人々の最初の拍手と共に、4時間余り絶息していたのに息を吹き返すというふしぎな助けをいただいた。翌朝、早速お礼参拝に、おぢばへ帰った。無い生命をたすけられた御守護に心からお礼を申し、今後は寿命のある限り御恩報じにつとめます、と誓った。そして、おぢばに10日余り滞在、親神の御守護、教祖「ひながた」の道を聞かされ、前半生を深く「さんげ」し、この道こそ「いんねん」納消の道であると悟り、生涯を「たすけ一条」のためにつとめきることを決意した。この頃、櫟本警察署に御苦労下された教祖を拝し、いよいよ「たすけ一条」の決心を固め、早速郡山の町々に熱心に神名を流し始めた。

明治19年陰暦5月、家業を止めて布教に専心した。その姿に感じて郡山の山瀬文治郎、福地庄松、増田甚七等が相次いで信仰し始めた。この年陰暦7月の頃、初代真柱が郡山洞泉寺町の講元に入り込まれ、「天竜講」の講名を下さった。寝食を忘れてたすけ一条の上に没頭した初代会長夫婦に導かれて、この年沢田重左衛門、植田平一郎、萬田万吉等の人々を始め、たすけ一条に志す人々が相次いだ。

明治20年陰暦正月26日の「おつとめ」に、初代会長は地方(ぢかた)の役割を勤めた。天竜講の道はこの年早くも、大和はもちろん、伊賀、山城、北陸等に伸びていった。

明治21年の教祖1年祭の節から、教会本部の設置を東京で出願することになったが、初代会長はこの時、初代真柱の供をした。

郡山分教会所の設立 

この年12月11日、郡山南大工町で郡山分教会所の設置を願い出て、「皆揃うて心を治め。所に理を無けらならん。皆んな心を揃うてすれば、どんな事も出けるで」と、お許しの「おさしづ」を頂いた。なお初代真柱からの郡山分教会設置の認可は、12月21日であった。

明治22年正月以来、地均しにかかり、連日数十人この「ひのきしん」でふしんは賑わった。388坪(1284㎡)の敷地に、9間(16m)に11間(20m)の神殿と付属屋を完成、陰暦6月3日本席が、翌4日初代真柱が臨席され、鎮座祭と奉告祭が勤められた。参拝者は3千余人。その後、初代会長は本部の御用に忙しい中、役員を率いて部内講社の修理に、また、新天地への発展を目指して各地に「ようぼく」を派遣するなど、積極的に丹精し、夫人は教会内を治め、寄り来る人々を導き育て、後顧の憂いなからしめたので、世間の反対、官憲の圧迫の中ながら、各地に幾多の部内教会が設立された。

明治22年11月11日、島ケ原支教会が伊賀国島ケ原村で、萬田万吉を会長として設置したのを初めとして、翌23年5月2日北陸支教会が、24年2月27日中和支教会、同年8月6日山陰支教会、25年8月30日には生駒支教会、同年10月26日には中背支教会が次々と設置された。

明治25年7月、豊田山で教祖御墓地の造営が行われたが、初代会長はふしん委員として連日ひのきしんの先頭に立ち、部内教会からも多数が参加して、石材や白砂なども寄進した。

明治27年陰暦10月27日、郡山分教会に教祖殿の普請が完成し、初代真柱、本席を迎えて、鎮座祭、奉告祭を勤めた。 

また、この年5月23日には、熊本支教会、東肥支教会が、それぞれ設立された。「教祖10年祭に当たり、各地から帰参する大勢の信者を宿泊させるために、初代会長は「屋敷の中は、八町四方と成るのやで」のお言葉を素直に受けて、おぢばから西4(436m)の所に、2,700坪(8,937㎡)の地を開拓し、5間(9m)に7間(13m)の本館、7間に17間(31m)の信徒室、4間(7m)に5間の事務所、炊事場、浴場などの普請に着手、60余日で完成した。

明治29年教祖10年祭の年末までに、東北、北陸、山陰、関東、東海、中国、九州の各地に、14支教会、105の出張所、96の布教所が設置された。

明治31年11月16日、島ケ原支教会は分教会に昇格して本部直属の扱いとなった。

明治32年12月10日、初代会長は、初代会長夫人の身上から頂いた「おさしづ」に基づき、お許しを頂いて、増田甚七が郡山分教会副会長に就任した。

同年12月15日、東京布教を志して、同年秋東京に出張していた初代会長夫人の身上が重くなり、46歳を一期として出直した。「おさしづ」で「皆女とあれど十分届いて居る」(さ28・10・19)とのお言葉を頂いた夫人に別れ、人々は悲嘆にくれた。

2代会長の就任

 明治33年6月28日、初代会長は専ら本部に勤めることとなり、増田甚七が2代会長に就任した。

2代会長は、郡山分教会の創立以前から初代会長の片腕となってよく勤め、明治25年、夫人の身上から商売を止めて道一条となり、分教会に住込み、役員として東奔西走、教会の御用に専心つとめていた。同じ日、中和支教会も分教会に昇格。本部直属となった。

明治34年7月、天理教校の普請が始まり、初代会長はふしん委員として務めた。11月19日工事現場から出火して用材を焼失したが、郡山分教会より新材を調えて、落成式の期日に間に合うことが出来た。 

明治36年、初代会長は島ケ原分教会長に就任し、また翌37年には、中和分教会の責任を持って、両4分教会の立て直しの上に尽力した。「危ない所まさかの時の台という、俎板という」(さ37・4・22)とのお言葉の通り、初代会長は道のまな板、道の台という信念を持って勤めきった。 

明治40年6月9日、本席は本部神殿のふしんを急き込みつつ、75歳の生涯を終えたが、この直前、初代会長は、この普請の完成を念願して、病中を押して北陸支教会の部内に巡教していた。本席の10日祭がつとめられた16日の夜、本席の葬祭に帰参していた郡山、島ヶ原、中和の教会長、信者1,500名に対して、本部神殿のふしんにつき熱誠溢れる取り次ぎをしたが、翌17日の明け方3時、俄かに病状改きり、「本部々々」の声を最後に出直した。63歳であった。

明治41年12月30日、天理教の一派独立に伴い、天理教郡山大教会と改称した。

明治43年、初代会長夫人の頃から創立されていた郡山婦人会は、天理教婦人会郡山支部となり、2代会長夫人増田房江が支部長をつとめた。翌44年郡山青年会が、役員鹿尾治兵衛を会長として設立された。

大正5年(1916)1月28日、約4,000名の参拝者のもと、郡山大教会の教祖30年祭を勤めたが、その翌々日、大教会の全動産物件が債権者に差押えられた。翌年7月7日、大教会の財政困難はその極に達して、遂に敷地建物まで競売に付された。8月8日、債権者会議が開かれたが、負債総額は28万余りにのぼった。しかし、この会議で3年据置き、20年賦償還と決まり、整理の目標がついた翌7年7月3日、大教会の敷地建物は再び買い戻された。大教会敷地建物の債務を償還して、真柱の名義にし頂きたいと、大教会挙げて一手一つにまい進した結果、大教会創立30周年記念祭は大正8年10月24日、盛大に勤めることででき、敷地建物は教会本部名義となった。大正10年10月、教祖40年祭の提唱を受け、教勢倍加の方針が打ち出された。教校別科生、帰参信者の増加に伴ない、大正13年には詰所事務所などを改築、翌年には、7間(13m)に14間(7m)の信徒室を建築した。大正10年末の教勢は、分教会8、支教会26、宣教所204であったが、40年祭の年、15年末には、分教会8、支教会34、宣教所445を数えるにいたった。

3代会長の就任

 大正15年3月8日、平野規知雄が3代会長に就任した。3代会長は、高安大教会初代会長松村吉太郎の次男として生まれ、増田2代会長の娘なつと結婚、平野家を継いだ人である。

この年11月、移転地として、郡山町北郡山に約2万坪(66,200m2)の土地を買収した。翌昭和2年(1927)正月から、地均し工事に掛かり、移転建築を開始した。

 昭和3年4月30日、2代会長増田甚七が、新しい神殿の賑々しい立柱式の直後、俄かに病気改まって出直した。66歳であった。

昭和5年10月22日、8間(15m)に17間(31m)の神殿、3間半(6m)に7間(13m)の教祖殿、3間半に6間(11m)の祖霊殿を始め、附属建物の普請が完成、2代真柱、中山たまへ(2代真柱母堂)を迎えて鎮座祭、奉告祭を盛大に勤めた。

この年10月、教祖50年祭と立教100年祭の提唱がされ、本部神殿増築と教祖殿新築が発表された。翌6年4月24日、郡山大教会として両年祭に対する決死奉公隊が結成され、9千余名がこれに参加「においがけ」「おたすけ」の上に、親里ふしんに全力を傾注する決意を固めた。

昭和9年、3代会長は本部員に登用された。この年、郡山詰所の改築を行ない、本館、会長宅、役員室、信者室2棟を増築した。

昭和10年、大教会子弟教養部が発足、道の後継者の育成に力を注いだ。

昭和11年2月19日に大教会で教祖50年祭を勤めた。この時部内教会は、605カ所を数えた。

3代会長は本部の御用に、また大教会の上に、真実一条につとめていたが、12年7月、日中戦争が始まり、翌13年5月、召集を受けて華中方面に赴き、翌年12月、従軍中にマラリア病となり、翌15年7月内地帰還となった。3代会長の留守中は、3代会長夫人が、代務者として勤めた。昭和15年、部内の5分教会は大教会に昇格、本部直属にすることとなった。

同年7月15日、能本分教会、9月30日には中央分秋会、10月24日には北陸分教会、翌年6月5日に東肥分教会、7月2日には山陰分教会がそれぞれ大教会に昇格し、部内教会は273カ所になった。

戦時体制のため、昭和18年、信者詰所を、翌年、「私会の信徒室を陸軍病院に貸与したが、20年8月、終戦となって返還を受けた。昭和21年、平和の衿に教祖60年祭が勤められ、教祖ひながたの道に復(かえ)りたすけ一条の実績を挙げるため、復元の方針が発表された。これに応えで「よふばく」の育成に、またおぢばへの伏込みに以めると共に、部内50カ所の戦災教会、9カ所の海外引き揚げ教会の復に全力が注がれた。 

昭和22年、天竜学園を創立し、思想的にも経済的

にも荒廃していた世情の中、「縦の伝道」をはかるため、日常的に少年会活動を始めた。 

4代会長の就任

 昭和125年9月26日、4代会長として、3代会長の長男知一が就任した。4代会長は、初代会長の命日に当る大正13年(1924)6月17日に出生、早稲田大学を卒業後、本部青年、また青年会郡山分会委員長を務め、御津大教会長小松駒太即次女しづと結婚した。翌年3月23日、2代真柱を迎えて就任奉告祭を勤めた。

昭和27年4月18日、教祖70年祭が提唱され、4代会長はこふき委員会常任委員に就任した。また青年会本部委員として中山善術会長の手足となり、「青年ようぼく」の成人と結集に尽力した。

昭和28年大教会内に布教実修所を創立し、地元布教につとめつつ、真のようぼく育成をすすめることになった。昭和50年よりは、婦人部も設置した。 

昭和34年12月23日、病気療養中の3代会長が、63歳で出直した。 

昭和36年4月18日、教祖80年祭が提唱され、10月26日、4代会長はふしん委員長に就任した。2代真柱の思召を体して、おやさとやかた西右第2、3棟の普請を担当することになったが、1,000ベッドを収容する病院の設計の上に、地元との折衝に、あるいはふしん委員会と建築業者との連絡の上に尽力した。翌37年4月、本部員に登用された。この年6月、「おやさとやかた」の建設が何時でも進めることができるように、その敷地となる郡山詰所の土地建物をお供えして、修養科生、検定講習生、高校生は、大教会から通った。

昭和41年3月22日、郡山大教会の教祖80年祭を2代真柱並びに善術夫妻の臨席のもとに勤めた。この年9月27日、生駒、中背両分教会は大教会しょう昇級となった。またこの日、4代会長は、おやさとやかた西左第3、4棟のふしん委員長に就任した。

昭和42年10月10日、少年会郡山隊の結成式を行ない、郡山団としての活動が始まった。

2代真柱の出直の翌年、2代真柱の誕生日を期して、昭和43年4月23日、真柱も参加されて、西左第4棟の掘方が始まった。同年10月24日、ブラジル国サンパウロ市に、天竜ブラジル教会が設立された。教祖70年祭後、海外伝道の声に応じて渡伯していたようぼくと、戦前に渡伯していた信者を結集して設立したものである。

昭和45年10月25日、おやさとやかた西左第4棟が竣工し、真柱夫妻を迎えて披露し、中河と郡山の詰所開きを行なった。

昭和50年1月25日、山陽分教会が、大教会に昇級した。部内教会は246カ所となった。

昭和51年10月26日、おぢば方向を向いておつとめを勤めさせて頂けるよう、神殿建築及び付属建物の移動増改築のお許しを頂き、翌年11月24日には、真柱夫妻を迎えて大教会創立90年記念祭を執り行ない、併せて神殿普請の起工式を行なった。

昭和55年5月23日、鉄筋コンクリート瓦葺2階建、延床面積3,211㎡の神殿を始め、客殿、食堂棟の建築、信徒室、会長宅などの移転普請が完成、真柱夫妻を迎えて、神殿落成奉告祭を執り行なった。

5代会長の就任

昭和60年3月26日、4代会長は、本部の御用に専念することとなり、5代会長に、平野知太郎が就任のお許しを頂いた。

昭和61年10月27日、5代会長は青年会本部委員長に就任、大教会長としてのつとめと共に、青年会本部の御用に邁進している。

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