みかぐらうた「五下り目」の意味と現代語訳|原文つきで詳しく解説
五下り目では、親神様の広いたすけ、心の汚れを洗うこと、欲を離れてやさしい心になる大切さが歌われます。
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- このページで解説する歌
- 五下り目の全体の意味
- 五下り目1つの原文と現代語訳
- みかぐらうた「五下り目1つ」の現代語訳と意味
- 五下り目2の原文と現代語訳
- みかぐらうた「五下り目2」の現代語訳と意味
- 五下り目3の原文と現代語訳
- みかぐらうた「五下り目3」の現代語訳と意味
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- みかぐらうた「五下り目6」の現代語訳と意味
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- みかぐらうた「五下り目7」の現代語訳と意味
- 五下り目8の原文と現代語訳
- みかぐらうた「五下り目8」の現代語訳と意味
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- みかぐらうた「五下り目10」の現代語訳と意味
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このページで解説する歌
五下り目の全体の意味
五下り目では、親神様の広いたすけ、心の汚れを洗うこと、欲を離れてやさしい心になる大切さが歌われます。
五下り目1つの原文と現代語訳
原文
一ッ ひろいせかいのうちなれバ
たすけるところがまゝあらう
現代語訳
この広い世界を見渡してみれば、拝み祈祷や易判断、あるいは医者や薬などによって「人をたすける」と言っている場所や方法は、あちらこちらに数多くあることでしょう。(しかし、親神様による真実の不思議なたすけはここだけなのです、と次のお歌に続きます。)
短い意味
「広い世界の中には、人をたすけると言っている場所があちらこちらに数多くあることでしょう」という、世間一般の救済の現状について歌ったお歌です。
みかぐらうた「五下り目1つ」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目1つ(一ッ ひろいせかいのうちなれバ)」は、世間一般に存在する様々な救済方法や信仰の現状を俯瞰しつつ、次のお歌で示される親神様の真実の救済への前振りとなるお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を学ぶことで、天理教の「不思議なたすけ」の独自性を理解する準備が整います。
重要キーワードの解釈
- ひろいせかいのうちなれバ:この広い世界を見渡してみれば、という意味です。特定の地域に限定されない、世間一般の状況を広く指しています。
- たすけるところがまゝあらう:「まゝ」とは「間々」、つまり「所々」や「あちこちに」という意味です。世間には、拝み祈祷や易判断、あるいは医薬などによって「人をたすける」と言っている場所が数多く存在しているだろう、ということです。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目1つ」を通して、私たちは世間にあふれる救済の方法と、親神様による真のたすけの違いについて考えさせられます。
- 広い世界には、人を救うと謳う場所や方法(拝み祈祷や医薬など)が多数存在しているという事実の確認
- それらの一般的な「たすけ」と、親神様が「このところ(元のぢば)」で現される「不思議なたすけ」とを明確に対比させていること
- 次のお歌(二ッ ふしぎなたすけハこのところ)へと続くことで、天理教における真実の救済の尊さがより一層引き立つ構成になっていること
五下り目2の原文と現代語訳
原文
二ッ ふしぎなたすけハこのところ
おびやはうそのゆるしだす
現代語訳
世間には様々なたすけの場所があるでしょうが(前首)、親神様による真実で不思議なたすけが現れるのは、人間創造の元の親里である「このところ(ぢば・元のやしき)」だけなのです。そして、その不思議なたすけの第一歩(道あけ)として、命の誕生を守る安産(おびや)のお許しと、幼い命を病から守る疱瘡(天然痘)のお許しを出すのです。
短い意味
「真実の不思議なたすけが現れるのは、人間創造の元なる『このところ(ぢば)』です。そのおたすけの入り口として、安産(おびや)と疱瘡のお許しを出します」という、ぢばならではの特別なご守護を歌ったお歌です。
みかぐらうた「五下り目2」の現代語訳と意味
みかぐらうたの「五下り目2(二ッ ふしぎなたすけハこのところ)」は、親神様による真実の救済が「元のやしき(ぢば)」においてのみなされることと、その具体的なご守護である「おびや(安産)」と「ほうそ(疱瘡)」のお許しについて歌われています。このお歌の現代語訳と、そこに込められた意味や解釈を学ぶことで、天理教における「ぢば」の尊さと、親神様の命に対する深い親心を理解することができます。
重要キーワードの解釈
- ふしぎなたすけ:人間の知識や医薬を超えた、親神様による自由自在で不思議な救済のことです。前首(一ッ)で歌われた世間一般のたすけとは異なる、真実の救済を意味します。
- このところ:人間創造の元の場所である「ぢば」や「元のやしき(現在のおぢば)」を指します。親神様が鎮まり、不思議なたすけが現れる唯一無二の場所です。
- おびやはうそのゆるし(帯屋疱瘡の許し):おびや許しとは、おぢばへ願い出ることで安産が約束されるご守護のことです。疱瘡(天然痘)の許しは、当時恐れられていた難病から子供を守るお許しであり、現在は「証拠守り(小人のおまもり)」としてその理が受け継がれています。これらは、命の誕生と健やかな成長を守る親神様の切実な親心の表れです。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目2」を通して、私たちは元のぢばの特別な理と、親神様のご守護のありがたさを学びます。
- 親神様による真実の「ふしぎなたすけ」は、人間創造の「ぢば」においてのみ現れるという確信を持つこと
- おびや(安産)と疱瘡の許しは、新しい命の誕生と健やかな成長を願う親神様の深い愛情(親心)の表れであること
- これらのお許しを入り口(道あけ)として、すべての人を根本から救済しようとされる、たすけ一条の道のありがたさ
五下り目3の原文と現代語訳
原文
三ッ みづとかみとはおなじこと
こゝろのよごれをあらひきる
現代語訳
水と神様とは、そのお働きにおいて同じ理合いを持っています。水がこの世のあらゆる汚れを洗い流し、清らかにするように、親神様は人々の心に知らず知らずのうちに積もった「ほこり」や我欲といった心の汚れを、すっきりと洗い清めてくださるのです。
短い意味
「水と神様とは同じ働きを持っています。水が万物の汚れを洗い流すように、親神様は人間の心の汚れをすっきりと洗い清めてくださいます」という、心の浄化を水に例えて歌ったお歌です。
みかぐらうた「五下り目3」の現代語訳と意味
みかぐらうたの「五下り目3(三ッ みづとかみとはおなじこと)」は、親神様のお働きを「水」に例え、人間の心に積もった汚れ(ほこり)を洗い清めてくださるという教理を歌ったお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた深い意味や解釈を学ぶことで、天理教において心を澄ますことの重要性を理解することができます。
重要キーワードの解釈
- みづとかみとはおなじこと(水と神とは同じ事):水と親神様とは、同じ理合い(お働き)であるということです。水は万物を潤し、あらゆる汚れを洗い流して浄化します。親神様も同様に、人間に恵みを与え、心の汚れを洗い清めてくださることを意味しています。
- こゝろのよごれ(心の汚れ):人間の心に知らず知らずのうちに積もる、欲や「八つのほこり」のことです。自己中心的な思いや、他を顧みない我欲などを指します。
- あらひきる(洗い切る):少しも残さず、すっきりと洗い清めることです。親神様におすがりし、教えに沿って信仰の道を歩むことで、人間心からくる欲や汚れが完全に浄化されることを示しています。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目3」を通して、私たちは心を清めることの意義と、親神様の浄化のお働きについて学びます。
- 水が万物の汚れを落とすように、親神様は人間の心の汚れをきれいに洗い清めてくださるという確信を持つこと
- 自分の心に積もった「ほこり」や欲に気づき、親神様のお働きによって洗い流していただく素直な心の大切さ
- 心の汚れが洗い切られることで、次のお歌(四ッ)で教えられる「欲のない心」へと向かうことができるという教理
五下り目4の原文と現代語訳
原文
四ッ よくのないものなけれども
かみのまへにハよくはない
現代語訳
人間というものは、誰しも我が身可愛さからくる「欲」を持たない者はありません。しかし、親神様(元の神・実の神)の前に進み出て、一心に祈りを捧げる時、その一切の我欲は消え去り、自然と澄み切った無欲の心になるのです。
短い意味
「人間は誰しも欲を持っていますが、親神様に向かって祈る時、その欲は自然と消え去り、澄み切った心になれる」という、祈りによる心の浄化を歌ったお歌です。
みかぐらうた「五下り目4」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目4(四ッ よくのないものなけれども かみのまへにハよくはない)」は、人間の持つ「欲」というほこりが、親神様に向かう純粋な信仰によって払い清められる様子を教えてくださるお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を深く学ぶことで、天理教において「欲」をどのように捉え、心を澄ませていくのかを理解することができます。
重要キーワードの解釈
- よく(欲):我が身可愛いという自己中心的な心から出る我欲、強欲、貪欲のことです。手振りでは、人を押しのけてでも自分のものにしたいという心を表現しています。みかぐらうたの中で具体的に名前が出ている「ほこり」は欲だけであり、八つのほこりの代表(代名詞)とも言えます。
- かみのまへにハ(神の前には):親神様の前、すなわち信仰の世界に身を置く時、という意味です。前首(三ッ)で「水と神とは同じこと」と歌われたように、神前に進み出て一心に祈ることで、神様のお働きによって欲という心の汚れが綺麗に洗い流され、無欲の心になれるという教理を示しています。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目4」を通して、私たちは人間の性と神前での祈りの力について学びます。
- 人間には誰しも「欲」があるという事実を素直に認めること
- しかし、親神様を信仰し、神前に向かう時には、その欲の心も自然と忘れ去ることができるという救い
- 自らの欲(ほこり)を親神様に洗い清めていただき、澄み切った心で陽気ぐらしに向かうことの大切さ
五下り目5の原文と現代語訳
原文
五ツ いつまでしん/\゛したとても
やうきづくめであるほどに
現代語訳
親神様の教えを信じて、このたすけ一条の道をどこまでも、いついつまでも信仰し続けたとしても、決して後悔することはありません。欲を洗い流した澄み切った心になれば、親神様のお働きによって、未来永劫、楽しみばかりの「陽気づくめ」の境地で暮らすことができるからです。
短い意味
「いつまで信仰の道を歩み続けても、この道は欲のない澄み切った心で通る、未来永劫変わらない陽気づくめの道である」という、信仰の喜びを歌ったお歌です。
みかぐらうた「五下り目5」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目5(五ツ いつまでしんぐしたとても)」は、欲の心を洗い流した先にある、陽気ぐらしの約束を歌ったお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を学ぶことで、天理教において信仰を長く続けることでもたらされる「陽気づくめ」の境地を理解することができます。
重要キーワードの解釈
- いつまでしんぐ(信心)したとても:どれほど長く信仰の道を歩み続けたとしても、という意味です。前首(四ッ)で「神の前には欲はない」と教えられたように、親神様におすがりし、欲を忘れて長く信仰を貫くことの尊さを示しています。
- やうきづくめ(陽気づくめ)であるほどに:心から欲やほこりを取り去り、澄み切った状態になれば、いかなる困難があっても楽しみばかりの陽気な世界になるということです。人間が自分勝手に楽しむ「勝手の陽気」ではなく、親神様と共にある真の「陽気ぐらし」の境地が、未来永劫にわたって続くことを約束されています。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目5」を通して、私たちは信仰を続けることで得られる真の幸福について学びます。
- 親神様を信じ、長く信仰を続けることへの揺るぎない安心感
- 自分の欲を捨てて心を澄み切らすことで、いかなる状況でも喜びを見出せるようになるという教理
- 親神様がお連れ通りくださる「陽気づくめ」の世界は、一時的なものではなく末代まで続くという確信
五下り目6の原文と現代語訳
原文
六ッ むごいこゝろをうちわすれ
やさしきこゝろになりてこい
現代語訳
自分さえ良ければ他人はどうなっても構わないというような、強欲で無慈悲な「むごい心」をすっきりと打ち捨てて忘れ去りなさい。そして、人を温かく包み込み、互いに立て合い助け合う素直で「やさしい心」になって、たすけ一条の根本であるおやしき(おぢば)へ帰って来なさい。
短い意味
「自分さえ良ければ他人はどうなっても構わないという残酷な心を忘れ去り、互いに助け合う優しい心になって、このおぢばへ帰ってきなさい」という、思いやりの心を促すお歌です。
みかぐらうた「五下り目6」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目6(六ッ むごいこゝろをうちわすれ)」は、自己中心的な残酷な心を捨て、人を思いやる優しい心になることの大切さを教えるお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を学ぶことで、天理教において親神様が望まれる「たすけ一条の心」のあり方を理解することができます。
重要キーワードの解釈
- むごいこゝろ(酷い心):他人はどうなってもよいと考える、残酷で無慈悲な心や、自己中心的な強欲のことです。手振りでは、相手を無理に押さえつけるような仕草で表現されており、そうした「ほこり」の心を打ち捨て、忘れ去ることが促されています。
- やさしきこゝろ(優しき心):人を温かく包み込むような、思いやりのある素直な心です。互いに立て合い助け合う心であり、手振りでは「両側から抱きかかえて押しいただく」動作で、人を思いやるたすけ一条の心が表現されています。
- なりてこい(なりて来い):単に優しい心になりなさいと言うだけでなく、そのような心になって「このおやしき(おぢば)へ帰って来い」と呼びかけられています。この呼びかけに応えることで、次のお歌(七ッ)で約束される大きなたすけへと繋がっていきます。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目6」を通して、私たちは陽気ぐらしへ向かうための具体的な心の切り替えについて学びます。
- 自分勝手で無慈悲な「むごい心」をすっきりと捨て去ることの重要性
- 人を抱きかかえるような「やさしい心(思いやりの心)」こそが、たすけ一条の根本であること
- 優しい心になって親神様のいらっしゃるおぢばへ帰ることで、次のお歌の「難儀はさせない」という大きなお守護へと繋がっていくという教理
五下り目7の原文と現代語訳
原文
七ッ なんでもなんぎハさゝぬぞへ
たすけいちじよのこのところ
現代語訳
親神様を信じてこの道について来るならば、どんなことがあっても、絶対に難儀不自由な思いはさせません。なぜなら、ここ(ぢば・元のやしき)は、世界中の人間を救済したいという親神様の「たすけ一条」の深い親心が現われた、救済の根本の場所だからです。
短い意味
「どんなことがあっても、絶対に難儀不自由な思いはさせない。なぜなら、ここは人をたすけることだけを願う『たすけ一条』の根本の場所だからである」という、力強いお約束のお歌です。
みかぐらうた「五下り目7」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目」の第7首「七ッ なんでもなんぎハさゝぬぞへ」は、親神様を信じておぢば(元のやしき)を慕い来る者に対して、絶対に難儀はさせないという、力強いご守護のお約束を歌ったお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を学ぶことで、天理教の最大の使命である「たすけ一条」の精神を深く理解することができます。
重要キーワードの解釈
- なんでもなんぎハさゝぬぞへ:「なんでも」とは、「どうでも」「どんなことがあっても」「絶対に」という意味です。「なんぎ」は、身上(病気)や事情の困難を指します。親神様にもたれて教えに従う者には、絶対に難儀不自由な思いはさせないという親神様の固い決意と親心が表れています。
- たすけいちじよ(たすけ一条):世界中のすべての人を救済することだけを一心に願う、親神様の真実の思いのことです。天理教における最大にして唯一の使命でもあります。
- このところ:親神様が鎮まり、たすけ一条の不思議な働きが現れる根本の場所である「おぢば(元のやしき)」を指しています。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目7」を通して、私たちは親神様の「たすけ一条」の思いと、おぢばの尊さを学びます。
- 親神様を信じて素直な心でついて行くならば、絶対に難儀はさせないという確かな安心感
- 「このところ(ぢば)」が、いかなる苦難をも救い上げる、たすけ一条の根本の場所であるという教理
- ただ助けを待つだけでなく、自らも「たすけ一条」の心になり、前首で教えられた「やさしきこゝろ」を実践していくことの大切さ
五下り目8の原文と現代語訳
原文
八ッ やまとばかりやないほどに
くに/\までへもたすけゆく
現代語訳
親神様による不思議なたすけは、決してお膝元である大和の国や日本国内だけに留まるものではありません。親神様は、神の用木(よふぼく)たちの働きを通して、世界の隅から隅まで、あらゆる国々のどこへでもたすけに回って行かれるのです。
短い意味
「親神様のおたすけは、お膝元である大和(日本)だけに限らず、広く世界中の国々どこまでも救済に向かって行く」という、世界たすけの広がりを歌ったお歌です。
みかぐらうた「五下り目8」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目」の第8首「八ッ やまとばかりやないほどに くに/\までへもたすけゆく」は、親神様による救済(たすけ)が、お膝元である大和の国から世界中へと広がっていくことを歌った力強いお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を深く学ぶことで、天理教が目指す「世界たすけ」の使命と、よふぼくの役割を理解することができます。
重要キーワードの解釈
- やまとばかりやないほどに(大和ばかりやないほどに):親神様のおたすけは、お膝元である大和(奈良県)や日本国内だけに限定されるものではないという意味です。大和を日本と捉えれば、「国々」は世界中へと意味が広がっていきます。
- くに/\までへもたすけゆく(国々までへもたすけ行く):世界中の隅から隅まで、どんなに遠く離れた国々へも救済に向かうという親神様の意志が示されています。具体的には、「よふぼく(用木=教えを信仰し実践する人)」を通して、人々の身上(病気)や事情の苦しみを救済し、心からたすけていくという使命を表しています。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目8」を通して、私たちは親神様の広大な親心と、信仰者の持つべき使命について学びます。
- 親神様のおたすけは、特定の地域に留まらず、世界中のすべての人々に及ぶ広大なものであること
- おぢば(大和)から始まり、日本全国、そして全世界へと救済の輪が拡張されていくという教理
- 親神様の思いを受けて、自らも「よふぼく」として国々所々へたすけに回る積極的な信仰姿勢の重要性
五下り目9の原文と現代語訳
原文
九ッ こゝはこのよのもとのぢば
めづらしところがあらはれた
現代語訳
ここ(元の屋敷)は、親神様が何もないところからこの世と人間を創造された根本の場所である「元のぢば」です。人間創造の地点であり、不思議なたすけが現れる他に類を見ない珍しい所(めづらしところ)が、この度ついに世界の人々の前に明らかになったのです。
短い意味
「ここ(おぢば)は、親神様がこの世と人間を創造された根本の場所です。他に類を見ない、不思議なたすけが現れる珍しい所が明らかになりました」という、ぢばの尊さを歌ったお歌です。
みかぐらうた「五下り目9」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目」の第9首「九ッ こゝはこのよのもとのぢば」は、天理教の信仰の中心である「おぢば」が、人間創造の元の場所であり、不思議なたすけが現れる他に類を見ない珍しい所であることを明かしたお歌です。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を学ぶことで、「ぢば」の尊さと救済発動の原点としての意義を深く理解することができます。
重要キーワードの解釈
- もとのぢば(元のぢば):親神・天理王命様が、何もないところからこの世と人間を創造された根本の場所のことです。現在のおぢば(元の屋敷)を指しています。
- めづらしところ(珍し所):他には存在しない、唯一無二の場所という意味です。また、これまでの常識では考えられないような「不思議なたすけ(奇跡的な救済)」が現れる場所であることも意味しています。
- あらはれた(現れた):これまで人間には知られていなかった「元のぢば」の真実が、親神様によって初めて世界の人々の前に明かされたことを示しています。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目9」を通して、私たちは「おぢば」の特別な理と、そこに現れる親神様のご守護について学びます。
- 「おぢば」が単なる聖地ではなく、人間創造の根本の場所(もとのぢば)であるという教理
- その場所から、世界中の人々を根本から救済する「不思議なたすけ」が現れること
- これまでの歴史で誰一人知らなかった「珍しい所」が明らかになったことへの驚きと喜び
五下り目10の原文と現代語訳
原文
どうでもしん/\゛するならバ
かうをむすぼやないかいな
現代語訳
ここが人間創造の元のぢばであり、不思議なたすけが現れる場所であることが分かったのだから。どうでもこうでも、親神様を信じて熱心に信仰するからには。皆で「講(信仰者の集い)」を結び、互いに手をつなぎ合い、助け合って、一手一つに賑やかに信仰の道を歩ませていただこうではないか。
短い意味
「どうせ熱心に信仰の道を歩むのなら、皆で講(信仰者の集い)を結び、互いに助け合って陽気に信仰を進めようではないか」という、講の結成と一手一つの信仰を促すお歌です。
みかぐらうた「五下り目10」の現代語訳と意味
みかぐらうた「五下り目」の最後を締めくくるこのお歌(どうでもしんぐするならバ かうをむすぼやないかいな)は、他の下り目とは異なり「十ド(とおど)」から始まらない例外的な構成となっています。このお歌の現代語訳と、そこに込められた教理の意味や解釈を深く学ぶことで、天理教において「講」を結び、一手一つに信仰することの大切さを理解することができます。
重要キーワードの解釈
- どうでもしんぐ(信心)するならバ:「どうでも」とは、「どうでもこうでも」「なんでもどうでも」という強い決意と精神を表しています。元のぢばの理を確信し、熱心に信仰の道を歩むからには、という意味です。
- かうをむすぼやないかいな(講を結ぼやないかいな):「講」とは、親神様を慕って集まる道の兄弟姉妹の集いのことです。一人で信仰するのではなく、互いに手をつなぎ合い、助け合って一手一つになることが、地上における陽気ぐらしの実現(陽気世界の雛型)であると教えられています。
- 九ッとの繋がり:前首(九ッ)で「元のぢば」が現れたと歌われ、このお歌へと一連の流れで続きます。単に珍しい場所が現れたと喜ぶだけでなく、その場所を中心として人々が講を結び、心を一つにした時にこそ、親神様は世界中へたすけに出向いてくださるという深い理合いが込められています。
このお歌から得られる学びと核心ポイント
この「五下り目10」を通して、私たちは個人のたすかりを越えた「講(集い)」の重要性を学びます。
- 親神様を信じるならば、一人ではなく皆で「講」を結び、互いに助け合うことの尊さ
- 「講」を結んで心を一手一つに合わせることこそが、陽気ぐらしの雛型であるという教理
- 人々が講を結び、たすけ合いの心になった時にこそ、親神様の自由自在な世界たすけの働きが現れるという確信

