稿本天理教教祖伝-全文-

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第一章 月日のやしろ

啓示:

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」

神々しい威厳に充ちた声に、身の引緊まるような霊気がその場に漲った。

 戸主の善兵衞も、修験者の市兵衞も、親族の人々も、誰一人頭を上げようとする者もない。それは、今までに聞いた事もない神であり、思いも寄らぬ啓示であった。善兵衞は、初めの程は全くその意味を解し兼ねたが、考えると、この啓示は中山家にとっては実に容易ならぬ重大事であり、どうしても実行出来そうにない事である。と、思い廻らすうちに、ふと念頭に浮んだのは、去年の冬頃から今日に打続く不思議な出来事である。

天保八年:

 天保八年十月二十六日のこと、十七歳の長男秀司は、母親みきに伴われて麦蒔の畑仕事に出た折、急に左足に痛みを覚え、駒ざらえを杖にして辛うじて家に辿りついた。早速、医者に診せた処、薄荷薬などを用いて手当ての限りを尽してくれたが、一向に痛みは治まらない。そこで、人の勧めるまゝに、近在に聞えた修験者、長滝村の市兵衞に使者を出したが、あいにく市兵衞は仁興村へ行って不在であった。

 越えて二十八日、再び使者をたてた。市兵衞は事の由を聞いた上、早速、百燈明を上げて詫びてくれた。使者が帰った頃には治まって居た。

が、翌日になると又痛み出したので、又もや使者を出して祈祷して貰うと、一旦は痛みは治まるものゝ、次の日になると又痛み出し、使者を出して祈祷して貰うと、治まった。こうして三度祈祷が繰り返されて、一応治まったが、二十日程経つと又々痛み出した。

 心配の余り、善兵衞自ら市兵衞を訪れ、折入って相談した処、そういう事ならば、一層の事、お宅で寄加持をするが宜しかろう。との事であったので、一旦家へ帰り家人とも相談の上、その意見に従う事にした。

市兵衞は、勾田村のそよを雇い、幣二本を持たせて台とし、近所の誰彼にも集まって貰い、護摩を焚き寄加持をした処、痛みは治まった。半年程経つと痛み出したので、寄加持をして貰うと、治まる。暫くすると又痛むという工合に、一年の間に九度も繰り返した。寄加持の時には、ただ近所の人々に集まって貰う丈ではなく、一々酒飯を振舞い、又供養のため近在の人々に施米した。一回の費用は凡そ四百目かゝり、軽い経費ではなかったが、可愛い伜を救けたいとの親心から、善兵衞は少しもその費えを厭わなかった。

天保九年:

 かくて、天保九年十月二十三日、夜四ッ刻(午後十時)、秀司の足痛に加えて、善兵衞は眼、みきは腰と三人揃うての悩みとなった。この日は、庄屋敷村の亥の子で、たま/\市兵衞も親族に当る乾家へ来て居た。

呼ぶと、早速来てくれ、これはたゞ事ではない、寄加持をしましょう。

とて、用意万端調え、夜明けを待って、いつも加持台になるそよを迎えにやったが、生憎と不在であった。やむなく、みきに御弊を持たせ、一心こめての祈祷最中に、「みきを神のやしろに貰い受けたい。」との、啓示となったのである。

 突嗟の間にも、この一連の事を思い廻らした善兵衞は、何となく不安を覚えたが、元の神の思召は、到底、お受け出来るものではないので、これはお断りするがよいと思い定め、折角の仰せでは御座いますが、子供も沢山御座いますし、村の役なども勤めて忙しい家で御座いますので、お受けは出来ません。他様に立派な家も沢山御座いますから、どうかその方へお越し願います。と、申上げ、市兵衞も言葉を添えて、お昇り下さいませ。と、願った。(註一)

しかし、元の神はどうしてもお聞き容れにならず。みきの言葉はいよいよ厳しく、その様子はます/\激しくなった。いつもの加持台の代りにみきを使ったばかりに、その口から思いもかけぬ未知の神の声を聞いて、多年、場数を踏んだ流石の市兵衞も、全く途方にくれた。

 寄加持は自ずと停まり、こゝに事態はあらたまった。元の神に暫時の猶予を願った一同は、その場を下がり額を寄せて協議する一方、居合わさない親族の誰彼にも使者を走らせた。

 家族や親族に、市兵衞も加わって、あらゆる智恵をしぼって相談を重ねたが、いくら相談しても、元の神の思召に従う方がよい。と言う者はない。子供は小さいし、村の役もあるし、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか。お断りするのが分別じや。と、口を揃えて善兵衞を勇気づけるばかりであった。善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。と、懇願した。

 その言葉の終るか終らぬうちに、みきの様子は一変し、言葉も一段と厳しく、「誰が来ても神は退かぬ。今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。」と、命ずるように、諭された。が、人々も退こうとはせず、人間の我々は、とても二十年も三十年も待って居る訳には参りません。今直ぐお昇り願います。と、迫ると、みきは更に激しく、「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と、無我の境に、ひたすら元の神の思召を伝えられた。

 夜を日についで三日の間、御幣を手にして端坐せられたまゝ、一度の食事をも摂らず、些かの休息もされぬみきは、或る時には静かに坐って居られるかと思えば、或る時には響き渡るような声で、厳かに元の神の思召を啓示げられ、手は激しく揺れ動き、御幣の垂紙は散々に破れた。

 何とかしてお昇り頂く手段は無いものかと、尚も相談を重ね、市兵衞にも諮ってみたが、事は既に市兵衞の力の及ぶ処ではなく、況んや人々にも名案は無かった。一方、食事も摂らず床にも寝まず、昼夜の別なく元の神の思召を伝えられるみきの緊張と疲労は、傍の見る眼にもその度を加え、このまゝでは一命の程も気遣われる様子になったので、遂に善兵衞は、事こゝに至ってはお受けするより他に途は無い、と思い定め、月日のやしろ:

二十六日、朝五ッ刻(午前八時)、堅い決心の下に、「みきを差上げます。」と、お受けした。この時、それまでの激しい様子初めて鎮まって、中山みきは神のやしろと定まりなされ、親神の心入り込んで、その思召を宣べ、世界たすけのだめの教を創められた。これぞ、我等が、月日のやしろと仰ぎ、ひながたの親と慕い、教祖と稱える方である。時に、御年四十一歳、天保九年十月二十六日であった。(註二)

いまなるの月日のをもう事なるわ

くちわにんけん心月日や 

一二 67

しかときけくちハ月日がみなかりて

心ハ月日みなかしている 

一二 68

註一 この時、長男秀司十八歳(満十七歳三カ月二十二日)長女おまさ十四歳(満十三歳六カ月十八日)三女おはる八歳(満七歳一カ月十七日)五女こかん二歳(満零歳十一カ月二日)であった。

註二 天保九年十月二十六日は、西暦千八百三十八年十二月十二日にあたる。

第二章 生い立ち

誕生:

 教祖中山みきは、寛政十年四月十八日朝(註一)、大和国山辺郡三昧田に生れられた。

父母:

 父前川半七正信は、領主から無足人に列せられて名字帯刀を許され、大庄屋をも勤め、母きぬは、同村長尾家の出で、淑やかな人柄の中にも、特に針持つ技に秀でて居た。

幼時:

 教祖は、三歳の頃から、なさる事が他の子供と異って居たので、近所の人々も、人並すぐれた珍らしいお子やと言いはやした。六歳の頃には、針を持ち始め、糸紡ぎをまね、網巾着を編み、糠袋を縫うては、好んで近所の子供達に与えられた。

 七歳の時には、近所の子供が泣いて駄々をこねて居るのを見て、自分が親から貰うた菓子を与え、その泣き止むのを見て喜ばれた。八、九歳には、忙しい秋の収穫時など、近所の小さい子供達を遊んでやられたので、その親達も、教祖のなされ方に感心せぬ者は無かった。

 手習いの手解きは、父親から受けられたが、九歳から十一歳まで、近村の寺小屋に通うて、読み書きなどを習われた。

 針仕事は、師匠につく事なく、母の膝下でひとりでに上達されたが、一度見たものは、そのまゝ型をとって細工物に作り、十二、三歳の頃には、大巾木綿を裁って、思うまゝに着物を仕立てられ、機織りも、人並優れて織りこなされた。又、信心深い家風の中に育つうちに、いつしか習い覚えて浄土和讃を暗誦されたのも、その頃である。

 聡明で器用な生付きの上に、何でも熱心に習い覚えて万事堪能であられ、素直な親孝行の方で、いつも喜んで母親の手助けをなされた。

 庄屋敷村の中山家へ嫁いで居た叔母きぬが、姪の人並優れた天分を見込んで、是非、伜善兵衞の嫁にほしいと懇望した。両親からこの話を当人の耳に入れた処、生来身体が余り丈夫でない処から、浄土に憧れ、かねて尼になりたいと思われて居た頃の事とて、返事を渋って居られたが、両親から、嫁して夫に仕えるこそ清浄な婦道である、と、懇ろに諭される言葉に納得して、「そちらへ参りましても、夜業終えて後は、念仏唱える事をお許し下さる様に。」との希望を添えて、承知された。

入嫁:

 かくて、文化七年九月十五日(註二)、振袖姿で駕籠に乗り、五荷の荷を持って、庄屋敷村の中山家の人となられた。時に、教祖十三歳であった。

 嫁がれた教祖は、両親にはよく孝養を尽し、夫にはよく仕えて些かも逆らうこと無く、一家睦じく楽しく暮された。舅から、そなた髭をよう剃るか。と、尋ねられた時に、剃刀と砥石を持ち出し、起用に剃刀をあわせて髭を剃られたので、舅は、何とまあ器用な。と、大そう喜んだ。

 衣服髪飾りなど、すべて質素で地味なものを好まれ、身なりには少しも頓着なさらなかった。十四歳で里帰りされた折には、着物は派手な振袖であるのに、髪は三十女の結う両輪であったから、村人達は、三十振袖。と、私語き合うた。

 朝は早く起き、自ら先に立って朝餉の仕度にかゝり、日中は炊事、洗濯、針仕事、機織りと一日中家事に勤まれたのみならず、農繁期の、田植え、草取り、稲刈りから、麦蒔き、麦刈りに到るまで、何なさらぬ事は無かった。後年、「私は、幼い頃はあまり達者でなかったが、百姓仕事は何でもしました。

只しなかったのは、荒田起しと溝掘りとだけや。他の仕事は二人分位働いたのやで。」と、述懐されたように、男の仕事とされて居るこの二つの力仕事を除いては、農家としての仕事は何一つとしてなさらぬ事は無かった。

 その頃、近在では綿を多く作って居たが、綿木引きをしても人の倍も働かれ、一日に男は二段、女は一段半が普通と言われて居たのに、女の身でありながら二段半もお抜きなされた。機織りは、どのように込み入った絣でも、自分で考えて組み立てゝ、自由自在に織り上げられた。しかも、普通二日かゝるものを一日で織り上げられる事も度々あった。

 その上、親族知人や隣近所の気受もよく、家においた人々には、いつも優しい言葉をかけて労わり、仕事休みの時などは、自ら弁当を作って遊山に出してやるなど、到れり尽せりの行き届き方であった。両親もこの様子を見て、十六歳の年には、全く安心して所帯を任せた。

 こうして家事に丹精し家業に励まれる一方、時たまの説法聴聞や寺詣りを無上の悦びとなされ、文化十三年春、十九歳の時、勾田村の善福寺で五重相伝を受けられた。

 このように、何一つとして申分の無い嫁御であられたが、子供の遅いのが、たゞ一つの気懸りであった。

 その頃、かのという女衆があって、善兵衞の寵をよい事に、日増しに増長して勝手の振舞いが多く、終には、教祖をないものにして、我が身が取って替わろうと企て、或る日の事、食事の汁のものに毒を盛った。

なにも知らず、これを召し上られた処、やがて激しく苦しまれた。家族の者は驚いて、懸命に看護の手を尽す一方、その原因を詮索すると、女衆の仕業であると分った。余りの事に驚き怒ったが、教祖は、苦しい息の下から、「これは、神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです。」と、宥め容された。この寛いお心に触れた女衆は、初めて迷いの夢から醒め、深く己が非を詫びて真底から悔い改め、やがて自ら暇をとって身を退いた。

 文政三年六月十一日、舅善右衞門は六十二歳で出直した。

長男出生:

 教祖は、この年、冬の頃から懐妊になられ、翌四年七月二十四日、二十四歳で長男を産み、善右衞門と名付けられた。後に改名して秀司と名乗り、長く教祖と苦労を共にした方である。初めての子に、しかも男児を授かって、善兵衞の喜びは譬えるに物もなく、明るい喜びが家の中に溢れ、新婚の頃にもまさる楽しい日々が続いた。この秀司懐妊中には、身重の身をもいとわず、姑を背負うて屋敷内はもとより、近所の誰彼までも訪ねて孝養の限りを尽された。

 又、文政八年四月八日には長女おまさを、同十年九月九日には次女おやすを産まれた。翌十一年四月八日には、姑きぬが出直した。

 善兵衞は人一倍子煩悩で、井戸の蓋を閉め忘れて野良へ出掛けた時などは、子供を気遣うあまり、早速、引返して来て蓋をした。又、思やりの深い性分で、夏、田圃の水を見廻りに行っても、畦道に土龍の穴を見付けると、たとい、他人の田でも早速修繕に取り掛り、日の暮れるのも忘れる程であった。

 夫婦共に、朝早くから夜遅くまで家業に精を出された。次々に子供が授かり、母としての仕事が次第に忙しさを加えると、昼は乳呑児を背負うて一日中機に上り、夜は懐に入れて晩くまで針仕事にいそしまれた。

又、慈しみ深い方で、好んで他人をたすけられた。

 或る時、米倉を破って米を運び出そうとする者があった。男衆達はこれを見付けて取り押さえ、訴えよう。と、騒いで居たが、ふと目を醒まされた教祖は、人々をなだめて、「貧に迫っての事であろう。その心が可愛想や。」と、かえって労わりの言葉を掛けた上、米を与えてこれを容された。

 或る秋の収穫時に、作男を雇われたが、この男は、丈夫な身体にも拘らず、至って惰け者で、他の人がどのように忙しくして居ても、一向に働こうとはせず、除け者になって居た。しかし、教祖は、見捨てることなく、いつも、「御苦労さん。」と、優しい言葉をかけて根気よく導かれた。作男は、初めのうちは、それをよい事にして、尚も、怠け続けたが、やがて、これでは申訳ないと気付いて働き出し、後には人一倍の働き手となった。

 或る秋の末のこと、一人の女乞食が、垢に塗れた乳呑児を背負い、門口に立って憐みを乞うた。教祖は、早速、粥を温めて与え、着物までも恵まれた上、「親には志をしたが、背中の子供には何もやらなんだ。さぞ腹を空かして居るであろう。」とて、その児を抱き取って、自分の乳房を含ませられた。

 出産の度毎にお乳は十分にあったので、毎度、乳不足の子供に乳を与えられたが、三十一歳の頃、近所の家で、子供を五人も亡くした上、六人目の男の児も、乳不足で育てかねて居るのを見るに忍びず、親切にも引き取って世話して居られた処、計らずもこの預り子が疱瘡に罹り、一心こめての看病にも拘らず、十一日目には黒疱瘡となった。医者は、とても救からん。と、匙を投げたが、教祖は、「我が世話中に死なせては、折角お世話した甲斐がない。」と、思われ、氏神に百日の跣足詣りをし、天に向って、八百万の神々に、「無理な願では御座いますが、預り子の疱瘡難かしい処、お救け下さいませ。その代りに、男子一人を残し、娘二人の命を身代りにさし出し申します。それでも不足で御座いますれば、願満ちたその上は私の命をも差上げ申します。」と、一心こめて祈願された。預り子は日一日と快方に向い、やがて全快した。その後天保元年、次女おやすは四歳で迎取りとなり、翌二年九月二十一日夜、三女おはる、同四年十一月七日、四女おつねと相次いで生れたが、同六年おつねは三歳で迎取りとなった。同八年十二月十五日には、五女こかんが生れた。

 後日のお話によると、願通り二人の生命を同時に受け取っては気の毒ゆえ、一人迎い取って、更にその魂を生れ出させ、又迎い取って二人分に受け取った、との事であった。

 その後も、慈愛は深く、施しは弘く、或は手織木綿を施し、或は白米を施されるなど、凶作、飢饉と相次いだ天保の頃には、施しは更に一層繁く且つ夥しくなった。

註一 寛政十年四月十八日は、西暦千七百九十八年六月二日にあたる。

註二 文化七年九月十五日は、西暦千八百十年十月十三日にあたる。

第三章 みちすがら

 月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、「貧に落ち切れ。」と、急込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困って居る人々に施された。

 一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける、と教えられた。

 教祖の言われる事なさる事が、全く世の常の人と異って来たので、善兵衞初め家族親族の者達は、気でも違ったのではあるまいか、又、何かの憑きものではあるまいか、と心配して、松葉を燻べたり、線香を焚き、護摩を焚きなどして、気の違いならば正気になれ、憑きものならば退散せよ。と、有らん限りの力を尽した。

 善兵衞の役友達である別所村の萩村、庄屋敷村の足達、丹波市村の上田などの人々は、寄り集まって、中山の家は、何時行っても子供ばかり淋しそうにして居て、本当に気の毒や。何とかならんものかしら。憑きものならば、我々の力で何としてゞも追いのけよう。と、相談の上、連れだってやって来て、教祖に向い、私達が、今日から神さんを連れて戻って信心しますから、どうかお昇り下さい。と、繰り返し/\責め立てたが、何の効めもなかった。

 世間の嘲りは次第に激しくなったが、その半面、近在の貧しい人々は、教祖の慈悲に浴しようと慕い寄った。教祖は、「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」と、子供可愛い一条の思召から、ます/\涯しなく施し続けられたので、遂には、どの倉もこの倉もすっきりと空になって了った。

 こうして、家財道具に至るまで施し尽されて後、或る日の刻限話に、「この家形取り払え。」と、仰せられた。余りの事に、善兵衞も容易には承知しなかった。すると、教祖は、不思議にも、身上の悩みとなられ、二十日間食事も摂らず床について了われた。親族の人々を呼び集め、相談の上、伺うと、「今日より、巽の角の瓦下ろしかけ。」との事である。やむなく、前川半三郎と男衆の宇平の二人が、仰せ通り瓦を下ろしかけると、教祖の身上の悩みは、即座に治まった。

 それから十五、六日も経つと、又もや激しい身上の悩みとなられ、今度は、声も出なければ、耳も聞えない、目も見えない、という容体となられた。又々、親族を呼び集めて相談の上、親神の思召を伺うと、「艮の角より、瓦下ろせ。」との仰せである。これを聞いた親族の者は、神様は難儀さすものではない。それに、こういう事を言われるとは納得出来ぬ。早く退いて貰いたい。と、お言葉に従わなかった。すると、どんなに手当てをしてもその甲斐なく、教祖の身上は、益々激しく苦しまれた。親族の者は口々に、つまらぬ事、と愚痴をこぼしながらも、やむを得ずお言葉通りにしたところ、教祖の身上の悩みは立所に去った。

 家を売るのは、何時の世にも容易ならぬ事である。まして、伝来のものを大切にするのが、何よりの孝道であると思われて居た当時にあって、村でも指折りの田地持ちであり、庄屋まで勤めた善兵衞にとっては、いかに親神の仰せとは言え、先祖代々伝わる家形を取り払えとは、全く穏やかならぬ話であった。

 村では、中山の家へ、神様がお降りになって、家形を取り払え、と仰しやるそうな。何うも訳の分らぬ話じや。と、喧しい噂となり、それを耳にする親族・友人は、重ねての意見に代る/\重い足をはこんだ。

 嫁入って来た女房に、家形を取り払え、と言われて、取り払いました。

と言うのでは、先祖に対して申訳あるまい。世間に対してあなたの男も立つまい。と、口を極めて激しく意見し、遂には、そんな事をして居ると、付合いをやめて了うが、よろしいか。と言う者さえあった。

 こうして、日が、月が、そして年が経ったが、世の人の心は堅い氷のようで、誰一人として親神の教に耳を貸そうとする者は無く、一列たすけの業は遅々として捗らなかった。

 或る日のこと、突如として、「明日は、家の高塀を取り払え。」と、啓示があった。親族も友人も、そんな無法な事。と言って強く反対したが、親神はどうしても聞き容れなさらず、この双方の間に立って、善兵衞の立場の苦しさは察するに余りあった。

 親神の思召に従えば、親族や友人の親切を無にせねばならず、さりとて、思召に従わねば教祖の身上は迫るし、その苦しまれる有様を見るに忍びないので、遂に意を決して親神の急込みに従い、高塀を取り払うた。

 しかし、この事があって後、親族友人は不付合いとなり、村人達は、あの人もとう/\気が違ったか。いや、憑きものやそうな。それにしても、善兵衞さんは甲斐性なしや。と、寄ると觸ると好き勝手な嘲りの言葉を言い立てた。中には、随分と中山家の恩顧を受け、教祖の慈悲に甘えた人々までも、世間体に調子を合せて嘲り罵り、果ては一寸も寄り付かなくなった。

 人の口はともかくも、戸主として、先祖に対する責任を思い、可愛い子供達の将来を思えば、一度は高塀を取り払いはしたものゝ、善兵衞にとって、眠れぬ夜が続いた。思い悩んだ末、善兵衞は、或る夜、教祖の枕許に白刃をかざして立ち、涙ながらに、世間の人には笑われ譏られ、親族や友達には不付合いとなり、どうすれば宜かろう。憑きものならば退いてくれ。気の違いならば正気になれ。と、迫った。このたゞならぬ気配に目を醒まされた教祖が、「あなた何しておいでか。」と、尋ねられると、善兵衞は、どうも、恐ろしゆうてならぬ。と、答えた。

 或る時は、自らも白衣を着し、教祖にも白衣を着せて、生家の兄弟衆も立合いの上、仏前に対坐して、先ず念仏を唱え、憑きものならば早く退け。と、刀を引き寄せて厳しく責め立てた。この時、親神のお言葉があって、この世の元初まりから、将来はどうなるという先の先迄説いて、ほんに狐や狸の仕業ではない。真実の親神である、と、納得出来るように、懇々と諭された。善兵衞にとって、親神の思召は分らぬではなく、又かねてからの約束も思い出されて、一応は納得したものゝ、中山家にとっては実に容易ならぬ事態である。

 教祖は、月日のやしろとして尚も刻限々々に親神の思召を急込まれつつも、人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された。

 或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。

しかし、いよ/\となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、「短気を出すやない/\。」と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった。

月日にわどんなところにいるものも

むねのうちをばしかとみている

一三 98

むねのうち月日心にかのふたら

いつまでなりとしかとふんばる

一三 99

真実が親神の思召にかのうたら、生死の境に於いて、自由自在の守護が現われる。

 嘉永元年、教祖五十一歳の頃から、「お針子をとれ。」との、親神の思召のまに/\、数年間、お針の師匠をなされた。憑きものでも気の違いでもない証拠を示させようとの思召からである。

 又、秀司も、寺小屋を開き、村の子供達を集めて、読み書きなどを教えた。

 その頃、お針子の中に、豊田村の辻忠作の姉おこよが居た。その縁から、忠作の仲人で、嘉永五年、三女おはるは、櫟本村の梶本惣治郎へ嫁入った。

嘉永六年:

夫出直:

 この間にも、人だすけのために、田地にまで手をつけて、施し続けられる折柄、嘉永六年二月二十二日(註一)、善兵衞は六十六歳を一期として出直した。人一倍愛情も濃やかに、親子夫婦の仲睦じく暮して来た一家の大黒柱、善兵衞の出直に遭い、家族の悲歎は一入深いものがあった。時に、教祖は五十六歳、秀司は三十三歳、おまさは二十九歳、こかんは十七歳であった。

にをいがけ:

 善兵衞の出直に拘らず、その年、親神のお指図で、こかんは、忍坂村の又吉外二人をつれて、親神の御名を流すべく浪速の町へと出掛けた。

父の出直という人生の悲しい出来事と、世界たすけの門出たるにをいがけの時旬とが、立て合うたのである。

 その日、こかんの一行は、早朝に庄屋敷村を出発して西へ向い、龍田村を過ぎ十三峠を越えて河内に入り、更に西へ進んで、道頓堀に宿をとり、翌早朝から、往来激しい街角に立った。

「なむ天理王命、なむ天理王命。」

元気に拍子木を打ちながら、生き/\とした声で、繰り返し/\唱える親神の御名に、物珍らしげに寄り集まって来る人の中には、これが真実の親の御名とは知らぬながらも、何とはなく、清々しい明るさと暖かな懐しみとを覚える者もあった。こうして、次から次へと賑やかな街角に立ち、「なむ天理王命、なむ天理王命。」と、唱えるこかんの若々しい声、冴えた拍子木の音に、聞く人々の心は晴れやかに且つ和やかに勇んで来るのであった。

 その頃、長女おまさは、縁あって豊田村の福井治助へ嫁いだ。

 かねて、買手を捜して居られた中山家の母屋も、望む人があって、いよ/\売られる事となった。母屋取毀ちの時、教祖は、「これから、世界のふしんに掛かる。祝うて下され。」と、仰せられながら、いそ/\と、人夫達に酒肴を出された。人々は、このような陽気な家毀ちは初めてや。と、言い合った。(註二)をびやためし:

 これより先、教祖四十四歳の時、妊娠七ケ月目の或る日のこと、親神から、「今日は、何処へも行く事ならぬ。」と、あった。そこで、その日は一日他出せずに居られた処、夜になってから、「眠る間に出る/\。」と、お話があり、その用意をして居られると、流産して、その後頭痛を催した。が、夜が明けてから、汚れた布類を自ら水で三度洗い、湯で一度洗うて、物干竿に三、四本も干されると、頭痛は拭うがように治まった。

 一つ間違えば命も危いという流産の場合でさえ、一心に親神に凭れて居れば、少しも心配なく、産後にも何の懸念もないという事を、先ず自らの身に試して、親神の自由自在を証された。

嘉永七年:

をびや許しの始め:

 嘉永七年、教祖五十七歳の時、おはるが、初産のためお屋敷へ帰って居た。その時、教祖は、「何でも彼でも、内からためしして見せるで。」と、仰せられて、腹に息を三度かけ、同じく三度撫でて置かれた。これがをびや許しの始まりである。

 その年十一月五日出産の当日(註三)、大地震があって、産屋の後の壁が一坪余りも落ち掛ったが、おはるは、心も安く、いとも楽々と男の児を産んだ。人々は、をびや許しを頂いて居れば、一寸も心配はない。

成程有難い事である。と、納得した。時に、おはる二十四歳であった。

生れた児は、長男亀蔵である。

 その翌日、お屋敷へ来た、村人の清水惣助の妻ゆきは、おはるが元気に立ち働いて居るのを見て、不思議な守護に感じ入り、私もお産の時に、お願いすれば、このように御守護を頂けましようか。と、伺うた処、教祖は、「同じ事や。」と、仰せられた。

 やがて、ゆきは妊娠して、をびや許しを願い出た。教祖は、おはるになさったと同じように、三度息をかけ三度腹を撫でて、「人間思案は一切要らぬ。親神様に凭れ安心して産ませて頂くよう。」と、諭された。ゆきは、をびや許しを頂いたものゝ、教祖のお言葉に十分凭れ切れず、毒忌み、凭れ物など昔からの習慣に従うと、産後の熱で三十日程臥せって了った。そこで、教祖に伺うて貰うと、「疑いの心があったからや。」と、仰せられた。ゆきは、このお言葉を聞いた途端、成程、と、深く感銘して、心の底から懺悔した。

 教祖は、その生れ児を引き取って世話なされた。ゆきは程なく全快した。

 翌年、妊娠した時、ゆきは、今度は決して疑いませぬ。と、堅く誓って、再びをびや許しを頂いた。この度は、教祖の教をよく守り、たゞ一条に親神に凭れて居た処、不思議な程軽く産ませて頂き、産後の肥立も亦頗る順調であった。前からの成行きを知って居た村人達の間にこの話が伝わり、噂は近在へと弘まって、人々は、まだ親神のやしろとは知らないながらも、教祖は常人ではないと、漸く気付き始めた。

 安政二年の頃には、残った最後の三町歩余りの田地を、悉く同村の足達重助へ年切質に書き入れなされた。

 家族の者は、親神の思召のまに/\、田畑に出る時にも常に木綿の紋付を着て居たので、近村の人々は、庄屋敷村の紋付さんと呼んで居たが、中でも青物や柴を商うて近村を歩く秀司の姿は、特に人目に付いたので、村人達は、紋付さん/\。と親しんだ。

 教祖の五十六歳から凡そ十年の間は、まことに容易ならぬみちすがらであった。働き盛りの秀司も、娘盛りのこかんも、一日として、これはと言う日もない中を、ひたすら、教祖の思召のまゝに素直に通った。

 秋祭の日に、村の娘達が着飾って楽しげに歩いて居るのに、わたしは、一人淋しく道行く渡御を眺めて居ました。と、こかんが、後日になって述懐したのもこの頃の事である。

 六十の坂を越えられた教祖は、更に酷しさを加える難儀不自由の中を、おたすけの暇々には、仕立物や糸紡ぎをして、徹夜なさる事も度々あった。月の明るい夜は、「お月様が、こんなに明るくお照らし下されて居る。」と、月の光を頼りに、親子三人で糸を紡がれた。秀司もこかんも手伝うて、一日に五百匁も紡がれ、「このように沢山出来ましたかや。」と仰せられる日もあった。普通、一人一日で四十匁、夜業かけて百匁と言われて居たのに比べると、凡そ倍にも近いお働き振りであった。

 夏は、ひどい籔蚊に悩まされ、冬は冬とて、枯れ葉小枝をくべて暖をとりながら、遅くまで夜業に精を出された。(註四)

こかんが、お母さん、もう、お米はありません。と、言うと、教祖は、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」と、諭され、又、「どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。乞食はさゝぬ。」と、励まされたので、子達も、崩折れ勝ちな心を振り起して、教祖に従うた。

 このように生計が苦しい時でも、その中から、食をさき着物を脱いで、困って居る者に与えられるのが常であった。漸くの思いで手に入れた五合の米を、偶々門口に立って食を乞う者に、何の惜気もなく与えられたのも、寒さにふるえて居る者を見て、身につけて居る絆纏を脱いで与えられたのも、この頃である。

にち/\に心つくするそのかたわ

むねをふさめよすゑハたのもし 

二 28

いまの事なにもゆうでハないほどに

さきのをふくハんみちがみへるで

三 36

いまのみちいかなみちでもなけくなよ

さきのほんみちたのしゆでいよ 

三 37

こうして尚数年の間、甚だしい難渋の中を通られるうちに、初めて、四合の米を持ってお礼参りに来る人も出来た。やがて、先に緒口を開かれたをびや許しの珍らしい守護を頂く者が次々と現われ、庄屋敷村には安産の神様が御座るそうな。生神様やそうな。という声が、口から口へと八方に弘まり、初産を前にして心配して居る人や、産後の煩いで床に臥して居る人、さては、かね/\お産の重いのを苦にして居た人は、次から次へと、ふしぎなたすけを願うて寄り集うたばかりでなく、重病人があって頼みに来ると、教祖は、いつもいと快くいそ/\とお出掛けになった。

文久二年:

 文久二年、教祖六十五歳の時、先方の願により、わざ/\安堵村へ、足を運ばれ、産後の煩いで危篤に陥って居る病人をお救けになった。

 二十数年に亙る長いみちすがらの後、漸く親神の思召が弘まり始めた。

お産は女の大役であり、殊にその頃は、お産に対する不安が、根強く人の心を支配して居た時代であったが、をびや許しを頂いた者は、皆、不思議なほど楽々と安産した。

 をびや許しは、人間宿し込みの親里である元のやしきから出す安産の許しである。

たいないゑやどしこむのも月日なり

むまれだすのも月日せわどり六 131

胎内へ宿るのも生れ出るのも、皆親神の守護による。をびや許しを受けた者は、必ず皆引き受けて安産さす。をびや一切常の通り、腹帯いらず、毒忌みいらず、凭れ物いらず、七十五日の身のけがれも無し。と、教えられた。このをびや許しが、よろづたすけの道あけとなって、教祖の六十五、六歳の頃、即ち文久二、三年には、庄屋敷村のをびや神様の名が、次第に大和国中に高まるにつけ、金銭の無心を言う者も出て来た。

並松村で稲荷下げをする者が来た時は、先方の請いに委せて二両二分を与えられた。文久二年頃の事である。しかし、世間の嫉み猜みや無理難題には頓着なく、親神の御名はいよ/\弘まり、後によふぼくとして勤めた人々が、次々に引き寄せられて親里へ帰って来た。文久元年頃には、檪枝村の西田伊三郎、同じく二年頃には前栽村の村田幸右衞門、同じく三年には豊田村の仲田佐右衞門(後に儀三郎)、辻忠作等である。

文久三年:

 文久三年三月四日、忠作が初めて参詣して、妹くらの気の間違いに就いて伺うて貰うと、教祖は、「此所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に。」と、仰せられた。忠作は、教えられるまゝに、家に帰って朝夕拍子木をたゝいて、「なむ天理王命、なむ天理王命。」と、繰り返し/\唱えて、勤めて居たが、一向に利やくが見えない。そこで、又お屋敷へ帰って、未だ治りませぬが、どうした訳で御座いましようか。と、伺うて貰うと、教祖は、「つとめ短い。」と、仰せられた。これを聞いた時、忠作はハッと心に思い当った。それは、当時のつとめは、たゞ拍子木をたゝいて繰り返し/\神名を唱えるだけで、未だ手振りもなく、回数の定めもなく、線香を焚いて時間を計って居たのであるが、忠作は、一本立てるべき線香を半分に折って居た。

これに気付いたので、早速お詫び申上げ、、家に戻り、線香を折らずに、毎朝毎晩熱心に勤めた。するとくらの患いは、薄紙を剥ぐように次第に軽くなって、間もなく全快した。

 同じくこの年、安堵村の飯田善六の子供が、一命も危いという容体になった時、両親は教祖に願うて来た。早速出掛けられた処、子供はみるみる中に元気になり、牡丹餅を食べる程になった。教祖は、七、八日間滞在なされ、寄り集う人々を救けられた。

文久四年:

 文久四年正月には、大豆越村の山中忠七が信仰し始めた。同じくこの月、教祖は、先方の頼みにより、再び、安堵村の飯田方へ出向かれ、四十日程滞在された。この由を聞き伝え、近在の村々から、教祖を慕うてたすけを求める者が、引切りなく続いた。(註五)

この事を伝え聞いた並松村の医者古川文吾は、奈良の金剛院の者をつれて来て、教祖のお居間に闖入し、狐、狸。などと罵り、将に、腕力にも及ぼうとした。その一瞬、教祖の様子忽ち改まり、厳かにお言葉があった。

「問う事あらば、問え。」と。文吾は次々と難問を発したが、教祖は、これに対して一々鮮やかに教え諭されたので、文吾は恐れ入り、平身低頭、座を下って退去した。

元治元年:

 元治元年の春から、教祖は、熱心に信心する人々に、扇のさづけを渡された。これを頂いた者は、五、六十人あったが、山中忠七と仲田佐右衞門は、それ/\扇、御弊、肥まるきりのさづけを頂いた。同年十二月二十六日には、辻忠作外数名の者がさづけを頂いた。この時、教祖から、「前栽、喜三郎、平骨の扇渡す、これ神と思うて大切に祀れ。」「同、善助、黒骨の扇渡す。」「同、幸右衞門、御幣、肥授けよう。豊田、忠作、御幣、肥授けよう。

これ末代と悟れ。長の道中、路金なくては通られようまい。路金として肥授けよう。」と、お言葉を頂いた。

 この頃には既に、芝村、大豆越村、横田村、小路村、大西村、新泉村、龍田村、安堵村、並松村、櫟本村、古市村、七条村、豊田村など、近村は言うに及ばず、かなり遠方からも、多くの人々が寄り集まった。

 このように、教祖六十六、七歳の頃、即ち、文久、元治の頃となって、帰って来る人々が次第に殖えると、お屋敷の建物の手狭さが特に目立って来た。既に母屋は無く、古い粗末な八畳と六畳の二間が、教祖のお住居であり、その八畳の間に、目標として御幣を祀って、人々の寄り集まる部屋ともなって居た。毎月の二十六日には、室内に入り切れず、庭まで溢れる景況であったので、早く詣り所を普請さして頂かねば、という声が、人々の間に、漸く起り始めた。

 後の本席・飯降伊蔵が、初めて参詣したのは、この頃の事である。

 元治元年五月の或る日、伊蔵が参詣して、こかんに、妻が産後の煩いから寝ついて居る旨を述べ、おたすけを願った。こかんが、この由を教祖に取り次ぐと、教祖は、「さあ/\、待って居た、待って居た。」と、喜ばれ、「救けてやろ。救けてやるけれども、天理王命と言う神は、初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ。」と、お言葉があったので、こかんは、三日の願をかけ、散薬を与えた。

教祖は、これより先、「大工が出て来る、出て来る。」と、仰せられて居た。

 伊蔵は、櫟本村へ戻って、妻のおさとにこの由を話すと、おさとも大そう喜び、教えられた通り、腹帯を取り除き、散薬を、早速一服、夜一服明方一服頂いた処、少しく気分が良くなった。伊蔵は、夜の明けるのを待ち兼ねてお屋敷へ帰り、こかんにこの旨を申上げると、「神様は、救けてやろ、と仰しやるにつき、案じてはいかん。」と、教えられ、更に散薬を頂いて戻り、おさとに頂かせると、夕方から大そう楽になった。伊蔵は、その夜、三度お屋敷へ帰った。

 おさとは、三日目には物に凭れて食事できる迄にお救け頂いた。伊蔵がお参りした時に、秀司が、どうですか。と、尋ねたので、大いに救かりました。と答えると、秀司は、よく救かってくれた。と、喜んだ。こうして、日ならずして、おさとの産後の煩いは、すっきり全快の守護を頂いた。

註一 嘉永六年二月二十二日は、西暦千八百五十三年三月三十一日にあたる。

註二 「この道始め家の毀ち初めや。やれ目出度い/\と言うて、酒肴を出して内に祝うた事を思てみよ。変わりた話や/\。さあ/\そういう処から、今日まで始め来た/\。世界では長者でも今日から不自由の日もある。何でもない処から大きい成る日がある。家の毀ち初めから、今日の日に成ったる程と、聞き分けてくれにゃなろまい。」

 (明治三三・一〇・三一)註三 嘉永七年十一月五日は、西暦千八百五十四年十二月二十四日にあたる。尚、この年十一月二十七日(一八五五・一・一五)を以て、安政元年と改元される。

註四 「話を楽しませ/\、長い道中連れて通りて、三十年来寒ぶい晩にあたるものも無かった。あちらの枝を折りくべ、こちらの葉を取り寄せ、通り越して来た。神の話に嘘は有ろまい。さあ/\あちらが出て来る、こちらが出て来る、」

 (明治二九・三・三一)註五 文久四年二月二十日改元、元治元年となる。

第四章 つとめ場所

元治元年:

 元治元年六月二十五日、飯降伊蔵が、初めて夫婦揃うてお礼詣りに帰った時、おさとが、救けて頂いたお礼に、何かお供さして頂きましよう。

と言ったので、伊蔵は、お社の献納を思い付いた。

 翌七月二十六日に帰った時、伊蔵夫婦は二人とも、扇と御幣のさづけを頂いた。この日伊蔵から、家内の身上の煩いを救けて頂いたお礼に、お社なりと造って納めたいと存じます。と、取次を通して申上げた処、教祖は、「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ。」と、仰せられた。

 どれ程の大きさのものを、建てさして頂きましようか。と、伺うと、「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家ではない。」と、仰せられ、さらに、「つぎ足しは心次第。」と、お言葉があった。次いで、秀司が、どこへ建てさして頂きましようか。と、伺うと、「米倉と綿倉とを取りのけて、そのあとへ建てるのや。」と、仰せられ、つゞいて、「これから話しかけたら、出来るまで話するで。」と、お言葉があった。

 この時、居合わせた人々は、相談の上、三間半に六間のものを建てさして頂こうと心を定め、山中忠七、費用引き受けます。飯降伊蔵、手間引き受けます。辻忠作、瓦。仲田佐右衞門、畳六枚。西田伊三郎、畳八枚。それ/\上げさして頂きます。と、話合いが出来た。越えて八月二十六日、おつとめが済んで参詣の人々が去んだ後、特に熱心な者が普請の寄付金を持ち寄った処、金五両あった。早速、これを手付けとして、飯降伊蔵は阪の大新へ材木の注文に、小路村の儀兵衞は守目堂村の瓦屋へ瓦の注文に行った。

 引き続き、信心の人々が寄り集まって、先ず米倉と綿倉を取りのけ、地均しをした上、九月十三日には目出度くちよんの始めも了り、お屋敷の中は、連日勇ましい鑿や槌の音が響いて、やがて棟上げの日が来た。

 元一日にゆかりの十月二十六日、朝から教祖の御機嫌も麗わしく、参詣人も多く集まって、棟上げも夕方までには滞りなく済み、干物のかます一尾宛に御神酒一、二升という、簡素ではあるが、心から陽気なお祝いも終った。山中忠七が、棟上げのお祝いに、明日は皆さんを自宅へ招待さして頂きたい。と、教祖に申上げると、教祖は快く許された。

 翌二十七日朝、一同が、これから大豆越村へやらせて頂きます。と、申上げた処、教祖は、「行ってもよろし。行く道すがら神前を通る時には、拝をするように。」と、仰せられた。そこで、人々は、勇みに勇んで大豆越村へ向って出発した。秀司、飯降伊蔵、山中忠七、芝村清蔵、栄太郎、久太郎、大西村勘兵衞、弥三郎、兵四郎、安女、倉女、弥之助の人々であった。

 山口村、乙木村を左に見て進むと、間もなく行く手に、佐保庄、三昧田の村々が見える。尚も南へ進み、やがて大和神社の前へ差かゝると、誰言うともなく、教祖が、神社の前を通る時は拝をして通れ、と仰せになった。拝をしよう。と、言い出した。そこで携さえて居た太鼓を、社前にあった四尺ばかりの石の上に置いて、拍子木、太鼓などの鳴物を力一杯打ち鳴らしながら、「なむ天理王命、なむ天理王命。」と、繰り返し/\声高らかに唱えつゞけた。

 これを耳にした神職達が、急いで社前へ出て見るとこの有様なので、早速、中止を命じると共に、太鼓を没収した。

 この日は、大和一国の神職取締り、守屋筑前守が、京都から戻って一週間の祈祷をして居る最中であった。(註一)由緒深い大和神社の社前で、卑俗な鳴物を用い、聞いた事もない神名を高唱するとは怪しからん。

お前達は一人も戻る事は相成らん。取調べの済む迄留めて置く。と、言い渡した。段々と取調べの上、祈祷の妨げをした。とて、三日の間、留め置かれたので、中には内心恐れをなす者も出て来た。

 この事件は、忽ち伝わって、庄屋敷村へも、大豆越村へも、又、近村の信者達へも聞えた。お屋敷では、こかんを始め残って居た人々は、早速家々へ通知するやら、庄屋敷村や櫟本村の知人や、村役人に連絡して、釈放方を依頼するやら、百方手をつくし、新泉村の山沢良治郎からも、筑前守に掛け合うた。

 又、櫟本村から庄屋の代理として岸甚七が来て掛け合うてくれたが、謝るより外に道がない。とて、平謝りに謝って貰った処、悪いと言うて謝るならば、容してもやるが、以後は決してこういう所へ寄ってはならぬ。との事で、今後決して致しませぬ。と、請書を書いて、漸く放免して貰うた。まだ日の浅い信者の中には、このふしから、不安を感じて落伍する者も出て、そのため、折角出来かゝって居た講社も、一時はぱったりと止まった。

 ふと、こかんが、行かなんだら宜かったのに。と、呟やいた処、忽ち教祖の様子改まり、「不足言うのではない。後々の話の台である程に。」と、お言葉があった。

 普請は棟を上げただけである。これから、屋根も葺き壁も塗り、床板も天井板も張らねばならぬ。秀司は、大和神社の一件では費用もかゝったし、普請の費用も次第にかさんで来たし、この暮はどうしたものかと、心配したが、伊蔵が、何にも案じて下さるな。内造りは必ず致します。

と、頼もしく答えたので、秀司は安堵した。

 大和神社の一件に拘らず、つとめ場所の内造りは進んだ。

「この普請は、三十年の見込み。」との、仰せのまゝに、屋根には土を置かず空葺にした。

 十二月二十六日、納めのつとめを済まして、飯降伊蔵が櫟本村へ戻る時、秀司は、お前が去んで了うと、後は何うする事も出来ん。と、言うた処、伊蔵は、直ぐ又引返して来ますから。と、答えた。秀司が、お前長らく居てくれたから、戻っても何もないやろ。こゝに肥米三斗あるから、これを持って去に。と、言うた。伊蔵はその中一斗を貰うて、櫟本村へ着くと、家主から家賃の催促があったので、早速、その米を家賃に納れ、更に、梶本惣治郎から、百五十目借りて一時をしのいだ。翌二十七日、お屋敷へ帰って来て、直ぐ材木屋と瓦屋へ断りに行き、お聞きでもありましようが、あの大和神社の一件で費用もかさみましたし、今直ぐ払う事は出来なくなりましたので、暫く待って下さい。決して損は掛けませんから。と、頼んだ。そこは、親神の守護と平生からの信用で、両方とも快く承知してくれた。この旨を、秀司とこかんに報告した処、二人とも安堵して、今は、三町余りの田地が、年切質に入れてあって儘にならぬが、近い中に返って来る。そしたら、田地の一、二段も売れば始末のつく事である。決して心配はかけぬ。と、慰めた。

 この元治元年には、山中忠七、飯降伊蔵の外に、山沢良治郎、上田平治、桝井伊三郎、前川喜三郎等の人々が、信仰し始めた。

元治二年:

 元治元年は暮れて二年となり、四月には改元して慶応元年となる。この年の元旦、飯降伊蔵は櫟本村から年始の挨拶に帰り、直ぐ我が家へ引返して正月を祝い、又、お屋敷へ帰って来た。

 つとめ場所は、出来上った。

 人々にとっては、中途に波瀾があって苦心が大きかっただけに、嬉しさも一入で、世界が一新したように感じられた。新築成った明るい綺麗なつとめ場所こそ、正しく成人の歩を進めた、心のふしんの姿であり、きりなしふしんへの門出であった。

 木の香も新しい上段の間の神床に親神を祀り、教祖は、同じ間の西寄りに壇を置いて、終日、東向いて端坐なされ、寄り来る人々に、諄々と親心の程を伝えられた。

 この頃既に、こかんは、諸々の伺いに対して、親神の思召を取り次いで居た。飯降伊蔵夫婦は、毎日詰めて居り、山中忠七も、時々手伝いに来た。

 庄屋敷村の生神様の、あらたかな霊験を讃える世間の声が、高くなるにつれ、近在の神職、僧侶、山伏、医者などが、この生神を論破しようと、次々に現われた。

慶応元年六月のふし:

 慶応元年六月の或る夕方、天理王命と申して、日暮に灯も點さぬのか。

と、言いながら、二人の僧侶が入って来た。こかんが応待に出ると、つか/\と歩み寄り、その両側に白刃を突き立て、難問を吹き掛けた。隣りの六畳の間に居た飯降伊蔵は、いざと言えば飛び出そうと身構え、はら/\しながら問答を聞いて居た。

 しかし、こかんは、平然として常に変らず、諄々と教理を取り次いだ。

僧侶は、理に詰った揚句、畳を切り破り、太鼓を切り裂くなど、暴れ散らして出て行った。

 守屋筑前守が、教祖にお目に掛り、種々と質問して、教祖の明快なお諭しに感服したのは、この頃である。

 この年八月十九日、教祖は、大豆越村の山中忠七宅へ出掛けられ、二十一日には、こかんも出掛けた。こかんは二十三日迄、教祖は二十五日迄、滞在されて、寄り来る人々に親神の思召を伝え、身上事情に悩む人人を救けられた。

助造事件:

 同年七、八月頃、福住村へ道がつき、多くの人々が相次いで参詣して来た中に、針ケ別所村の助造という者があった。眼病を救けられ、初めの間は熱心に参詣して来たが、やがて、お屋敷へ帰るのをぷっつりとやめて了ったばかりではなく、針ケ別所村が本地で、庄屋敷村は垂迹である。と、言い出した。

 教祖は、九月二十日頃から少しも食事を召し上らず、「水さえ飲んで居れば、痩せもせぬ。弱りもせぬ。」と、仰せられて、一寸も御飯を召し上らない。人々が心配して、度々おすゝめ申上げた処、少々の味醂と野菜をお上りになった。こうして約三十日間の断食の後、十月二十日頃、急に針ケ別所村へ出張る旨を仰せ出され、飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎を供として、午後九時頃、針ケ別所村の宿屋へ到着された。

 翌朝、教祖は、飯降、山中の両名に、「取り払うて来い。」と、仰せられた。早速、二人は助造宅の奥座敷へ乗り込み、祀ってあった御幣を抜いて二つにへし折り、竈に抛り込んで燃やして了った。

 宿へ戻って、たゞ今取り払うて参りました。と、申上げ、これで、もう帰ったらどうやろなあ。と、二人で話し合うて居ると、教祖は、「帰ぬのやない。」と、仰せられた。

 助造の方でも、直ぐには帰んで貰う訳には行かぬ。と、言い出し、かれこれして居る中に、奈良からは、金剛院が乗り物でやって来る。こちらも、守屋筑前守の代理として山沢良治郎が到着する。いよ/\談判が始まった。

 しかし、いかに言い曲げようとも、理非曲直は自ら明らかである。助造が教祖に救けられた事は事実である。彼の忘恩は些かも弁護の余地が無いのみならず、針ケ別所村を本地とする説の如きは、教祖を前にしては、到底主張し了せるものではない。三日目になってとう/\道理に詰って了い、助造も金剛院も、平身低頭して非を謝した。落着迄に七日程掛った。

 お帰りに際し、助造は、土産として、天保銭一貫目、くぬぎ炭一駄と、鋳物の燈籠一対有った中の一つとを、人足を拵えてお屋敷迄届けた。

真之亮誕生:

 同年、おはるが懐妊った。教祖は、「今度、おはるには、前川の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの真之亮やで。」慶応二年:

と、懐妊中から、仰せられて居た。月みちて慶応二年五月七日、案の定、玉のような丈夫な男の児が生れた。教祖は男児安産の由を聞かれ、大そう喜ばれた。そして、「先に長男亀蔵として生れさせたが、長男のため親の思いが掛って、貰い受ける事が出来なかったので、一旦迎い取り、今度は三男として同じ魂を生れさせた。」と、お話し下された。

 この頃、近郷近在の百姓達だけではなく、芝村藩、高取藩、郡山藩、柳本藩、古市代官所、和爾代官所等、諸藩の藩士で参詣する者も続々と出て来たが、半面、反対攻撃も亦一層激しくなった。

 慶応二年秋の或る日、お屋敷へ小泉村不動院の山伏達がやって来た。

教祖にお目に掛るや否や、次々と難問を放ったが、教祖はこれに対して、一々鮮やかに教え諭された。山伏達は、尚も悪口雑言を吐きつゞけたが、教祖は、泰然自若として些かも動ぜられない。遂に、山伏達は、問答無用とばかりに刀を抜き放って、神前に進み、置いてあった太鼓を二箇まで引き裂き、更に、提灯を切り落し、障子を切り破るなど、散々に暴れたその足で、南西へ二里、大豆越村の山中忠七宅へ乗り込んで、御幣を抜き、制止した忠七の頭をたゝき、踵をかえして北へ向い、古市代官所へ訴えて出た。かくて、古市代官所としても、庄屋敷の生神様を注視する成行きとなった。

註一 守屋筑前守広治は、大和国磯城郡川東村蔵堂の住人、嘉永五年筑前守に任ぜられ、従五位に敍せられ、守屋神社の神職をつとめると共に、吉田神祇管領から、大和一国の神職取締りを命ぜられて居た人である。

第五章 たすけづとめ

つとめの意義:

 教祖は、陽気ぐらしをさせたいとの、親神の思召のまに/\、慶応二年から明治十五年に亙り、よろづたすけの道として、たすけづとめを教えられ、子供の心の成人につれ、元の理を明かし、たすけづとめの全貌を整えられた。

 この世元初まりの時、親神は、人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいとの思召から、人間を創め給うた。陽気ぐらしこそ、親神の思召にかなう人間生活である。

 然るに、人間は、陽気ぐらしをさせようとて、我がの理とゆるされた心の自由を用い誤まり、我が身思案にさ迷うて来た。

 親神は、これを憐れと思召され、旬刻限の到来を待ち、教祖をやしろとして表に現われ、一列人間の心を澄まし、陽気ぐらしへ導く道として、たすけづとめを啓示げられた。つとめはかぐらを主としててをどりに及ぶ。

かぐら:

 かぐらづとめは、元のぢばに於いて勤める。十人のつとめ人衆が、かんろだいを圍み、親神の人間世界創造の働きをそのまゝに、それ/\の守護の理を承けて、面をつけ、理を手振りに現わして勤める。地歌鳴物の調子に従い、親という元という理一つに溶け込んで、一手一つに勤める時、親神の創造の守護は鮮やかに現われ、いかなる身上の悩みも事情の苦しみも、悉く取り除かれて、この世は次第に陽気ぐらしの世界へと立替わる。

 かぐらの地歌は、次の三句より成る。

あしきをはらうてたすけたまへ

 てんりわうのみこと

ちよとはなし かみのいふこときいてくれ

あしきのことはいはんでな

このよのぢいとてんとをかたどりて

ふうふをこしらへきたるでな

これハこのよのはじめだし

あしきをはらうてたすけせきこむ

いちれつすましてかんろだい

てをどり:

 てをどりは、陽気ぐらしの如実の現われとして、かんろだいのぢば以外の所にても勤める事をゆるされて居る。地上に充ちる陽気ぐらしの自らなる現われとも言うべきものである。このてをどりの地歌として教えられたのが、よろづよ八首及び十二下りの歌である。

 つとめは、かぐら面を用いるが故に、かぐらづとめとも呼び、よろづたすけを現わすつとめなれば、たすけづとめとも呼ぶ。かんろだいを圍んで勤めるが故に、かんろだいのつとめとも呼び、陽気ぐらしを讃えるつとめなれば、よふきづとめとも呼ぶ。それ/\の意味に於いてそれぞれの呼び名を教え、呼び名によって、つとめにこもる深い理の一つ/\を、分り易く覚え易く教えられた。

 かぐらとてをどりの地歌を合わせた、つとめの地歌の書きものを、みかぐらうたと呼ぶ。

あしきはらひ始まる:

 さて、つとめの地歌は、慶応二年「あしきはらひ」に始まる。

 慶応二年秋、教祖は、

あしきはらひたすけたまへ てんりわうのみことと、つとめの歌と手振りとを教えられた。

 この年の五月には、大和国若井村の松尾市兵衞が、信仰し始めた。

慶応三年:

 年が明けると慶応三年、教祖七十歳の年、正月から八月迄に、十二下りの歌を作られた。各下りは、いずれも十首ずつの数え歌から成り、親神の望まれる陽気ぐらしの喜びに充ちて居る。

 思えば、教祖は、教の創まり以来長い歳月の間、親神の思召のまにまに、一日として今日という日とてない中を、しかも勇んで通り抜けられ、こゝに目出度く迎えられたのが、月日のやしろと成られて三十年目の慶応三年新春である。

 更に、明治三年には、よろづよ八首の歌を十二下りの歌の初めに加えられた。

よろづよのせかい一れつみはらせど

むねのわかりたものはない

そのはずやといてきかしたことハない

しらぬがむりでハないわいな

このたびはかみがおもてへあらハれて

なにかいさいをときゝかす

このところやまとのぢばのかみがたと

いうていれどももとしらぬ

このもとをくはしくきいた事ならバ

いかなものでもこいしなる

きゝたくバたづねくるならいうてきかす

よろづいさいのもとなるを

かみがでゝなにかいさいをとくならバ

せかい一れついさむなり

一れつにはやくたすけをいそぐから

せかいのこゝろもいさめかけ

一下り目

一ッ 正月こゑのさづけは やれめづらしい

二ニ につこりさづけもろたら やれたのもしや

三ニ さんざいこゝろをさだめ

四ッ よのなか

五ッ りをふく

六ッ むしやうにでけまわす

七ッ なにかにつくりとるなら

八ッ やまとハほうねんや

九ッ こゝまでついてこい

十ド とりめがさだまりた

二下り目

とん/\とんと正月をどりはじめハ

 やれおもしろい

二ッ ふしぎなふしんかゝれバ

 やれにぎはしや

三ッ みにつく

四ッ よなほり

五ッ いづれもつきくるならば

六ッ むほんのねえをきらふ

七ッ なんじふをすくひあぐれバ

八ッ やまひのねをきらふ

九ッ こゝろをさだめゐやうなら

十デ ところのをさまりや

三下り目

一ッ ひのもとしよやしきの

 つとめのばしよハよのもとや

二ッ ふしぎなつとめばしよハ

 たれにたのみはかけねども

三ッ みなせかいがよりあうて

 でけたちきたるがこれふしぎ

四ッ よう/\こゝまでついてきた

 じつのたすけハこれからや

五ッ いつもわらはれそしられて

 めづらしたすけをするほどに

六ッ むりなねがひはしてくれな

 ひとすぢごゝろになりてこい

七ッ なんでもこれからひとすぢに

 かみにもたれてゆきまする

八ッ やむほどつらいことハない

 わしもこれからひのきしん

九ッ こゝまでしん/\したけれど

 もとのかみとハしらなんだ

十ド このたびあらはれた

 じつのかみにはそうゐない

四下り目

一ッ ひとがなにごといはうとも

 かみがみているきをしずめ

二ッ ふたりのこゝろををさめいよ

 なにかのこともあらはれる

三ッ みなみてゐよそばなもの

 かみのすることなすことを

四ッ よるひるどんちやんつとめする

 そばもやかましうたてかろ

五ッ いつもたすけがせくからに

 はやくやうきになりてこい

六ッ むらかたはやくにたすけたい

 なれどこゝろがわからいで

七ッ なにかよろづのたすけあい

 むねのうちよりしあんせよ

八ッ やまひのすつきりねはぬける

 こゝろハだん/\いさみくる

九ッ こゝはこのよのごくらくや

 わしもはや/\まゐりたい

十ド このたびむねのうち

 すみきりましたがありがたい

五下り目

一ッ ひろいせかいのうちなれバ

 たすけるところがまゝあらう

二ッ ふしぎなたすけハこのところ

 おびやはうそのゆるしだす

三ッ みづとかみとはおなじこと

 こゝろのよごれをあらひきる

四ッ よくのないものなけれども

 かみのまへにハよくはない

五ッ いつまでしん/\したとても

 やうきづくめであるほどに

六ッ むごいこゝろをうちわすれ

 やさしきこゝろになりてこい

七ッ なんでもなんぎハさゝぬぞへ

 たすけいちじよのこのところ

八ッ やまとばかりやないほどに

 くに/\までへもたすけゆく

九ッ こゝはこのよのもとのぢば

 めづらしところがあらはれた

どうでもしん/\するならバ

 かうをむすぼやないかいな

六下り目

一ッ ひとのこゝろといふものハ

 うたがひぶかいものなるぞ

二ッ ふしぎなたすけをするからに

 いかなることもみさだめる

三ッ みなせかいのむねのうち

 かゞみのごとくにうつるなり

四ッ ようこそつとめについてきた

 これがたすけのもとだてや

五ッ いつもかぐらやてをどりや

 すゑではめづらしたすけする

六ッ むしやうやたらにねがひでる

 うけとるすぢもせんすぢや

七ッ なんぼしん/\したとても

 こゝろえちがひはならんぞへ

八ッ やつぱりしん/\せにやならん

 こゝろえちがひはでなほしや

九ッ こゝまでしん/\してからハ

 ひとつのかうをもみにやならぬ

十ド このたびみえました

 あふぎのうかゞひこれふしぎ

七下り目

一ッ ひとことはなしハひのきしん

 にほひばかりをかけておく

二ッ ふかいこゝろがあるなれバ

 たれもとめるでないほどに

三ッ みなせかいのこゝろにハ

 でんぢのいらぬものハない

四ッ よきぢがあらバ一れつに

 たれもほしいであらうがな

五ッ いづれのかたもおなしこと

 わしもあのぢをもとめたい

六ッ むりにどうせといはんでな

 そこはめい/\のむねしだい

七ッ なんでもでんぢがほしいから

 あたへハなにほどいるとても

八ッ やしきハかみのでんぢやで

 まいたるたねハみなはへる

九ッ こゝハこのよのでんぢなら

 わしもしつかりたねをまこ

十ド このたびいちれつに

 ようこそたねをまきにきた

 たねをまいたるそのかたハ

 こえをおかずにつくりとり

八下り目

一ッ ひろいせかいやくになかに

 いしもたちきもないかいな

二ッ ふしぎなふしんをするなれど

 たれにたのみハかけんでな

三ッ みなだん/\とせかいから

 よりきたことならでけてくる

四ッ よくのこゝろをうちわすれ

 とくとこゝろをさだめかけ

五ッ いつまでみあわせゐたるとも

 うちからするのやないほどに

六ッ むしやうやたらにせきこむな

 むねのうちよりしあんせよ

七ッ なにかこゝろがすんだなら

 はやくふしんにとりかゝれ

八ッ やまのなかへといりこんで

 いしもたちきもみておいた

九ッ このききらうかあのいしと

 おもへどかみのむねしだい

十ド このたびいちれつに

 すみきりましたがむねのうち

九下り目

一ッ ひろいせかいをうちまわり

 一せん二せんでたすけゆく

二ッ ふじゆうなきやうにしてやらう

 かみのこゝろにもたれつけ

三ッ みれバせかいのこゝろにハ

 よくがまじりてあるほどに

四ッ よくがあるならやめてくれ

 かみのうけとりでけんから

五ッ いづれのかたもおなじこと

 しあんさだめてついてこい

六ッ むりにでやうといふでない

 こゝろさだめのつくまでハ

七ッ なか/\このたびいちれつに

 しつかりしあんをせにやならん

八ッ やまのなかでもあちこちと

 てんりわうのつとめする

九ッ こゝでつとめをしてゐれど

 むねのわかりたものハない

とてもかみなをよびだせば

 はやくこもとへたづねでよ

十下り目

一ッ ひとのこゝろといふものハ

 ちよとにわからんものなるぞ

二ッ ふしぎなたすけをしてゐれど

 あらはれでるのがいまはじめ

三ッ みづのなかなるこのどろう

 はやくいだしてもらひたい

四ッ よくにきりないどろみづや

 こゝろすみきれごくらくや

五ッ いつ/\までもこのことハ

 はなしのたねになるほどに

六ッ むごいことばをだしたるも

 はやくたすけをいそぐから

七ッ なんぎするのもこゝろから

 わがみうらみであるほどに

八ッ やまひはつらいものなれど

 もとをしりたるものハない

九ッ このたびまでハいちれつに

 やまひのもとハしれなんだ

十ド このたびあらはれた

 やまひのもとハこゝろから

十一下り目

一ッ ひのもとしよやしきの

 かみのやかたのぢばさだめ

二ッ ふうふそろうてひのきしん

 これがだいゝちものだねや

三ッ みれバせかいがだん/\と

 もつこになうてひのきしん

四ッ よくをわすれてひのきしん

 これがだいゝちこえとなる

五ッ いつ/\までもつちもちや

 まだあるならバわしもゆこ

六ッ むりにとめるやないほどに

 こゝろあるならたれなりと

七ッ なにかめづらしつちもちや

 これがきしんとなるならバ

八ッ やしきのつちをほりとりて

 ところかへるばかりやで

九ッ このたびまではいちれつに

 むねがわからんざんねんな

十ド ことしハこえおかず

 じふぶんものをつくりとり

 やれたのもしやありがたや

十二下り目

一ッ いちにだいくのうかゞひに

 なにかのこともまかせおく

二ッ ふしぎなふしんをするならバ

 うかゞひたてゝいひつけよ

三ッ みなせかいからだん/\と

 きたるだいくににほいかけ

四ッ よきとうりやうかあるならバ

 はやくこもとへよせておけ

五ッ いづれとうりやうよにんいる

 はやくうかゞいたてゝみよ

六ッ むりにこいとハいはんでな

 いづれだん/\つきくるで

七ッ なにかめづらしこのふしん

 しかけたことならきりハない

八ッ やまのなかへとゆくならバ

 あらきとうりやうつれてゆけ

九ッ これハこざいくとうりやうや

 たてまへとうりやうこれかんな

十ド このたびいちれつに

 だいくのにんもそろひきた

 つゞいて節付けと振付けに、満三ケ年かゝられた。教祖は、「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。」と、仰せられ、又、「つとめに、手がぐにや/\するのは、心がぐにや/\して居るからや。

一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。

大切なつとめやで。」と、理を諭された。

 初めてお教え頂いたのは、歌は、豊田村の忠作、前栽村の幸右衞門、喜三郎、手振りは、豊田村の佐右衞門、忠作、前栽村の喜三郎、善助、三島村の嘉一郎の面々であった。

 後年、教祖は、「わしは、子供の時から、陰気な者やったで、人寄りの中へは一寸も出る気にならなんだが、七十過ぎてから立って踊るように成りました。」と、述懐された。

 当時庄屋敷村は、藤堂藩に属し、大和国にある同藩の所領を管轄する役所は、古市代官所と言って奈良の南郊にあった。この古市代官所では、小泉不動院の訴えもあり、守屋筑前守の紹介もあり、その後も庄屋敷村の生神様の風評は次第に喧しくなって来るので、慶応二年の頃、呼び出して事情を聞いた。

神祇管領の公認:

 お屋敷からの一行は、宿にあてられた会所に二、三日宿泊された。代官所では段々と実情を聴取したが、不都合の廉は少しもない。たゞ公許を受けて居ない点だけが、問題として残った。そこで、話合いの上、吉田神祇管領へ願い出る事となった。先ず、慶応三年六月、添書の願を古市代官所へ提出し、領主の添書を得て、秀司は、山沢良治郎を供に、守屋筑前守も同道して京都へ上り、吉田神祇管領に出願し、七日間かゝって、慶応三年七月二十三日付で、その認可を得た。(註一)

当局の認可を得た事は、どんなに嬉しかったであろうか。親神の思召の弘まって行く上に、確かに躍進の一歩を進めるものと思われた。特に、しんになって働いた秀司の苦心と喜びは、並々ならぬものがあり、帰りには行列を作ろうと思うて居た処、布留社の神職達が、布留街道は我が方の参道であるから、もし一歩でも踏み込んだら容赦せぬ、とて、人を雇うて河原城村の石の鳥居の所で待ち伏せて居る、と、報らせがあったので、別所村から豊田村へと間道を通り、恙なくお屋敷へ到着した、という話が残って居る。

 お屋敷では、日夜お手振りの稽古が行われ、人々の心は明るくなった。

しかし、教祖は、「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時ある。」と、仰せられた。

 慶応三年八月頃、世間では、お祓いさんが降る、と、騒いだが、教祖は、「人間の身体に譬えて言えば、あげ下しと同じようなもの、あげ下しも念入ったら肉が下るように成る程に。神が心配。」と、仰せられた。人々は、一体何が起るのかしらと気懸りであった処、翌慶応四年正月三日から鳥羽伏見の戦が起こった。

明治元年:

 慶応四年三月七日、教祖は、大豆越村の山中忠七宅へ出掛けられ、十日迄滞在された。こかんも同じく出掛け、九日から十三日迄滞在した。

当時お屋敷は、お手振りの稽古で賑わって居た。

 しかし、世間の反対攻撃は未だ全く無くなった訳ではなく、慶応四年三月二十八日の夜には、お手振りの稽古をして居ると、多数の村人が暴れ込んで、乱暴を働いた。

 同年九月には、明治元年と改元された。

 同年十二月には、伊豆七条村の矢追治郎吉(後に喜多)が、信仰し始めた。

かんろだいのつとめ:

 明治三年には、「ちよとはなし」の歌と手振りとを、同八年には、「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りとを教えられ、こゝに、かんろだいのつとめの手一通りが初めて整い、つゞいて、肥、萠え出等十一通りの手を教えられた。更に、明治十五年に、手振りは元のまゝながら、「いちれつすます」の句は、「いちれつすまして」と改まり、それに伴うて、「あしきはらひ」も亦、「あしきをはらうて」と改まった。

註一 古市代官所へ呈出した文書の控

乍恐口上之覚庄屋敷村 願人 善右衞門一、私儀従来百姓渡世之ものニ御座候、然ルニ三十ケ年余己前、私幼少人 善右衞門之頃癇病(風毒)ニ而、足脳ミ候ニ付、亡父善兵衞存命中、私方屋敷内人 善右衞門ニ天輪王神鎮守仕信心仕(中略)然ルニ右信心之儀諸方江相聞近来諸方人 善右衞門ヨリ追々参詣人有之就而ハ、神道其筋ヨリ故障被申立候而ハ、迷惑難渋人 善右衞門仕候ニ付此度京都吉田殿江入門仕置度奉存候ニ付乍恐此段御願奉申上候、 人 善右衞門何卒御情愍を以、吉田殿江之御添翰被為下置候様奉願上候、右之趣御聞人 善右衞門届被為成下候ハヽ難有仕合可奉存候、以上

慶応三卯年六月庄屋敷村

願人 善兵衞

同村年寄 庄作

同村 平右衞門

同村庄屋 重助服部庄左衞門様

(備考 後の方の「願人 善兵衞」は、「願人 善右衞門」の誤記と思われる。)

第六章 ぢば定め

明治二年:

 教祖は、親神の思召のまに/\、明治二年正月から筆を執って、親心の真実を書き誌された。これ後日のおふでさきと呼ぶものである。その巻頭に、

よろつよのせかい一れつみはらせど

むねのハかりたものハないから 

一1

そのはづやといてきかした事ハない

なにもしらんがむりでないそや 

一2

このたびハ神がをもていあらハれて

なにかいさいをといてきかする 

一3

この世の元初まり以来、親を知らず元を知らずに暮して来た一列人間を、憐れと思召す親心の程を述べ、この度、真実の親神が初めてこの世の表に現われて、世界たすけのだめの教を創める、と宣べられ、

このところやまとのしバのかみがたと

ゆうていれども元ハしろまい

一4

このもとをくハしくきいた事ならバ

いかなものでもみなこいしなる 

一5

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ

よろづいさいのもとのいんねん 

一6元のぢばこそ、一列人間の親里である、と、元のいんねんを明かされた。

かみがでてなにかいさいをとくならバ

せかい一れつ心いさむる

一7

いちれつにはやくたすけをいそぐから

せかいの心いさめかゝりて 

一8真実の親の声を聞く時、人の心は皆勇む。今こそたすけ一条を急ぐ上から、世界中の人の心を勇め掛ける、と、陽気ぐらしへの親心を宣べられた。次いで、秀司の結婚:

このたびハやしきのそふじすきやかに

したゝてみせるこれをみてくれ

一 29

秀司は、既に五十に近くなりながら、正妻が無かった。これに対して親神は、世界たすけの前提として屋敷の掃除を急込まれ、年齢の点からは不釣合と思われようとも、魂のいんねんによって、小東家からまつゑを迎えるように、と諭され、

いまゝても神のせかいであるけれど

なかだちするハ今がはじめや

一 70とて、教祖自ら、平等寺村の小東家へ出掛け、だん/\と魂のいんねんを説いて納得させられたので、明治二年婚約とゝのい、まつゑは目出度くお屋敷の人となった。

 教祖は、おふでさき第一号に、この結婚を台として諄々と夫婦の理を教え、次の一首を以て結ばれて居る。

せんしよのいんねんよせてしうごふする

これハまつだいしかとをさまる 

一 74三十八日間の断食:

 教祖は、この年四月末から六月初めにかけて、三十八日間の断食をなされ、その間少々の味醂を召し上るだけで、穀類はもとより、煮たものは、少しもお上りにならなかった。

明治三年:

 明治維新により、明治三年には、吉田神祇管領が廃止された。人々は、成程、教祖のお言葉通りである。と、深く感銘したが、こゝに、先の公認は無効となった。

 人々はこれを憂えて、再三新政府に願い出ようとしたが、教祖は、厳しくこれをお止めになり、「願に行くなら行って見よ、行きつかぬうちに息が尽きるで。そんな事願に出るのやないで。」と、仰せられたので、その事は取止めになった。たゞ一条に親神に凭れ、いかなる試錬にも堪えて通り抜いてこそ、親神の思召にかなう成人を遂げる事が出来る、と、神一条の道の根本の理を諭されたのである。

 明治三年、四年、五年と、珍らしいたすけは次々に現われ、親神の思召は大和の国境を越えて、河内、摂津、山城、伊賀と、近隣の国々へ弘まった。

 明治四年正月には、河内国の松村栄治郎が、信仰し始めた。

七十五日の断食:

 年が明けると明治五年、教祖は七十五歳になられる。この年六月の初め頃から七十五日の間、殻気を一切断って、火で炊いたものは何一つ召し上らず、たゞ水と少量の味醂と生野菜とを召し上るだけであった。断食を始められてから三十余日経った頃、約四里の道程を、若井村の松尾市兵衞宅へ歩いて赴かれた。いとも軽ろやかに、速く歩かれるので、お供の者は随いて行きかねる程であった。十余日間の滞在中も、殻気は一切召し上らなかったのに、お元気は少しも衰えず、この七十五日の断食の後、水を満した三斗樽を、いとも楽々と持ち運ばれた。

 この年九月、別火別鍋と仰せられた。月日のやしろに坐す所以を、姿に現わし、人々の目に見せて、納得させようとの親心からである。

明治五年:

 明治五年六月十八日には、梶本惣治郎妻おはるが、四十二歳で出直した。

 この年、太陽暦が採用され、十二月三日を以て、明治六年一月一日と定められた。

明治六年:

かんろだいの雛型:

 明治六年、飯降伊蔵に命じてかんろだいの雛型を作られた。これは、高さ約六尺、直径約三寸の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ約三寸の六角の板の付いたものであった。出来てから暫く倉に納めてあったが、明治八年ぢば定めの後、こかん身上のお願づとめに当り、初めて元のぢばに据えられ、以後、人々は礼拝の目標とした。

 同六年、秀司は庄屋敷村の戸長を勤めた。

 この年には、河内国の山本利八、その子利三郎等が、信仰し始めた。

明治七年:

 年が明けると明治七年、教祖は七十七歳になられる。第三号から第六号半ばに亙るおふでさきは、この年の筆で、急ぎに急がれる親神の思召の程を誌され、重大な時旬の迫って居る事を告げて、強く人々の心の成人を促された。

お節会:

 教祖の膝下に寄り集い、元旦に供えた鏡餅のお下りを、一同打揃うて賑やかに頂く事は、既に早くから行われて居たが、そのお供餅の量も次第に殖えて、明治七年には、七、八斗にも上った。この行事は、お節会と呼ばれて、後年、次第に盛んになった。

 第三号に、

このたびハうちをふさめるしんばしら

はやくいれたい水をすまして三 56と、誌して、しんばしらを定めるよう急込まれた。当時、真之亮は九歳で、いつも櫟本村の宅からお屋敷へ通うて居たが、教祖は、家族同様に扱て、可愛がられた。まだ幼年でもあり、親神の思召が皆の人々に徹底して居た訳でもなく、嗣子として入籍した訳でもない。そこで、一日も早く名実共に、道の内を治める中心と定めるよう、急込まれた。

かぐら面お迎え:

 教祖は、かねて、かぐら面の制作を里方の兄前川杏助に依頼して居られた。杏助は生付き器用な人であったので、先ず粘土で型を作り、和紙を何枚も張り重ね、出来上りを待って粘土を取り出し、それを京都の塗師へ持って行って、漆をかけさせて完成した。月日の理を現わすものは、見事な一閑張の獅子面であった。こうして、お面が出来上って前川家に保管されて居た。

 第四号には、

このひがらいつの事やとをもている

五月五日にたしかでゝくる 

四3

それよりもをかけはぢまるこれをみよ

よるひるしれんよふになるぞや 

四4と、記され、親神の思召のまに/\、時旬の到来を待って、明治七年六月十八日(陰暦五月五日)、教祖は、秀司、飯降、仲田、辻等の人々を供として、前川家へ迎えに行かれた。

 教祖は、出来上ったかぐら面を見て、「見事に出来ました。これで陽気におつとめが出来ます。」と、初めて一同面をつけて、お手振りを試みられた。そして又、「いろ/\お手数を掛けましたが、お礼の印に。」と、仰せられて、差し出されたのが、おふでさき二冊に虫札十枚であった。この二冊は第三号と第四号であった。その表紙には共に、「明治七紀元ヨリ二千五百三十四年戌六月十八日夜ニ被下候」とあり、更に第三号には、「国常立之御神楽、前川家ニ長々御預り有、其神楽むかひニ見ゑ候節ニ、直筆貮冊持て外ニ虫札拾枚ト持参候て、庄屋敷中山ヨリ神様之人数御出被下明治七年六月十八日夜神楽本勤」と記し、第四号には、「外冊、神様直筆、七十七歳書」と記されて居る。初めて、お面をつけてお手振りされた様子と、お屋敷に保管される原本に対して、外冊と書き残した前川家の心遣いの程が偲ばれる。

かぐらづとめ:

 かぐら面は出来た。お屋敷では月の二十六日には、お面をつけてかぐら、次にてをどりと、賑やかに本勤めを行い、毎日毎夜つとめの後では、お手振りの稽古を行った。

たん/\と六月になる事ならば

しよこまむりをするとをもへよ 

四5

やがて、親里へ帰った証拠として、証拠守りが渡される。いちれつすますかんろだいの手は、翌八年に始まり、つとめ人衆が思召通り揃うのも、尚未来の事ながら、こうして、たすけづとめの仕度は、着々と親神の思召に近づいた。その頃、第五号に、

みへるのもなにの事やらしれまいな

高い山からをふくハんのみち

五 57

このみちをつけよふとてにしこしらへ

そばなるものハなにもしらすに 

五 58

このとこへよびにくるのもでゝくるも

神のをもハくあるからの事 

五 59いよ/\世界に向って、高い山から往還の道をつける。警察の召喚も出張も、悉くこれ高山たすけを急込む親神の思召に他ならぬ、と、今後満十二年に亙り、約十八回に及ぶ御苦労を予言され、又、その中にこもる親神の思召の真実を宣べ明かされた。今や将に、教祖に対する留置投獄という形を以て、高山布教が始まろうとして居る。

大和神社のふし:

 明治七年陰暦十月の或る日、教祖から、仲田儀三郎、松尾市兵衞の両名に対して、「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで。」と、お言葉があった。両名は早速大和神社へ行って、言い付かった通り、どのような神様で御座りますか。と、問うた。神職は、当社は、由緒ある大社である。祭神は、記紀に記された通りである。と、滔々と述べ立てた。しからば、どのような御守護を下さる神様か。と、問うと、神職達は、守護の点については一言も答える事が出来なかった。

 この時、大和神社の神職で原某という者が、そんな愚説を吐くのは、庄屋敷の婆さんであろう。怪しからん話だ。何か証拠になるものがあるのか。と問うた。両名は、持参したおふでさき第三号と第四号を出して、当方の神様は、かく/\の御守護を為し下さる、元の神・実の神である。

と、日頃教えられた通り述べ立てたところ、一寸それを貸せ。と言うた。

その二冊を貸すと、神職は、お前達は、百姓のように見えるが、帰ったら、老母に指を煮湯に入れさせよ。それが出来れば、こちらから東京へ願うて、結構なお宮を建てゝ渡す。出来ねば、元の百姓に精を出せ。と、言い、記紀に見えない神名を称えるは不都合であるから、これは弁難すべき要がある。石上神宮は、その氏子にかゝる異説を唱えさせるのは、取締り不充分の譏りを免れない。何れ日を更めて行くであろうから、この旨承知して居よ。と、いきまいた。

 こうして二人が帰って来ると、折り返し大和神社の神職が人力車に乗ってお屋敷へやって来た。偽って、佐保之庄村の新立の者やが、急病ですから伺うて下され。と、言うたが、伺う事は出来ません。勝手に拝んでおかえり。と、答えると、そのまゝかえって行った。しかし、その翌日、石上神宮から神職達が五人連れでやって来て、秀司に向って問答を仕掛けた。秀司は、相手になっても仕方がないので、知らぬ。と、答えると、村の役迄する者が、知らぬ筈があるものか。と、しつこく迫って来たので、辻忠作が、昨日、大和神社へ行った者が居りますゆえ、こちらへ来て下され。と、話を引き取った。

 この時、教祖は、親しく会うと仰せられ、衣服を改めた上、直々お会いなされ、親神の守護について詳しく説き諭された。神職達は、それが真なれば、学問は嘘か。と、尋ねると、教祖は、「学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい。」と仰せられた。

 神職達は、あきれて、又来る。と、立ち去った。

 その後、丹波市分署から巡査が来て、神前の幣帛、鏡、簾、金燈籠等を没収し、これを村役人に預けた。

山村御殿のふし:

 石上神宮の神職との問答があって後、奈良県庁から、仲田、松尾、辻の三名に対して差紙がついた。三名が県庁へ出頭すると、社寺掛から、別々に取調べ、信心するに到った来歴を問い質した。その時、社寺掛の稲尾某は、十二月二十三日(陰暦十一月十五日)に山村御殿へ出張するから、そこへ教祖を連れて来い、と命じた。山村御殿とは円照寺の通称である。

 円照寺は、奈良県添上郡帯解村大字山村にあり、その頃、伏見宮文秀女王の居られた所である。このような尊い所へ呼び出したなら、憑きものならば畏れて退散する、と、考えたからであろう。

 教祖は、呼出しに応じ、いそ/\と出掛けられた。

 お供したのは、辻忠作、仲田儀三郎、松尾市兵衞、柳本村の佐藤某、畑村の大東重兵衞の五名であった。途中、田部村の小字車返で、ふと躓いて下唇を怪我なさった。心配するお供の人々に対して、教祖は、「下からせり上がる。」と、仰せられ、少しも気になさらなかった。

 円照寺へ着くと、午後二時頃から、円通殿と呼ばれる持仏堂で、中央に稲尾某が坐り、石上の大宮司と外に一名が立ち会い、主として稲尾某が取調べに当った。稲尾が、いかなる神ぞ。と、問うと、その言葉も終らない中に、神々しくも又響き渡るような声で、「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや。」と、仰せられた。稲尾は、其方、真の神であるならば、此方が四、五日他を廻って来る間に、この身に罰をあてゝみよ。と、言った。

 その途端、教祖は、「火水風共に退くと知れ。」と、言い放たれた。稲尾は、これは神経病や、大切にせよ。とて、医者に脈をとらすと、医者は、この人は、老体ではあるが、脈は十七、八歳の若さである。と、驚いた。

 それから、今日は芸の有るだけをゆるす。と言われて、扇を一対借りて、辻の地で、仲田が手振りをして、陽気に四下り目まですますと もう宜しい。と、言うた。まだ、あと八下りあります。と、続けようとしたが、強って止められ、茶菓の馳走になって帰られた。

 これから後、県庁は、お屋敷へ参拝人が出入りしないよう、厳重に取り締り始めた。

 翌二十四日(陰暦十一月十六日)朝、教祖は、

にち/\に心つくしたものだねを

神がたしかにうけとりている

しんぢつに神のうけとるものだねわ

いつになりてもくさるめわなし

たん/\とこのものだねがはへたなら

これまつだいのこふきなるそや (おふでさき号外)と、詠まれた。

 二十五日(陰暦十一月十七日)になると、奈良中教院から、辻、仲田、松尾の三人を呼び出し、天理王という神は無い。神を拝むなら、大社の神を拝め。世話するなら、中教院を世話せよ。と、信仰を差止め、その上、お屋敷へやって来て、幣帛、鏡、簾等を没収した。

 このふしの前後に誌された第六号には、

このよふの月日の心しんぢつを

しりたるものわさらにあるまい 

六9と、初めて月日と誌され、

このよふのしんぢつの神月日なり

あとなるわみなどふくなるそや 

六 50との御宣言と共に、「十二月廿一日よりはなし」とあるお歌(六 55)からは、これまで用いられた神の文字を月日と置きかえて、一段と親神の理を明かされた。

赤衣:

 更に、十二月二十六日(陰暦十一月十八日)、教祖は、初めて赤衣を召された。この赤衣の理については、

いまゝでハみすのうぢらにいたるから

なによの事もみへてなけれど

六 61

このたびハあかいところいでたるから

とのよな事もすぐにみゑるで

六 62

このあかいきものをなんとをもている

なかに月日がこもりいるそや

六 63と、お教え下された。神から月日へと文字をかえ、身に赤衣を召されて、自ら月日のやしろたるの理を闡明された。これ、ひとえに、子供の成人を促される親心からである。

お守り:

 これからは常に赤衣を召され、そのお召下ろしを証拠守りとして、弘く人々に渡された。これは、一名々々に授けられるお守りで、これを身につけて居ると、親神は、どのような悪難をも祓うて、大難は小難、小難は無難と守護される。

 又、中教院の干渉に関しては、

月日よりつけたなまいをとりはらい

このさんねんをなんとをもうぞ 

六 70

しんちづの月日りいふくさんねんわ

よいなる事でないとをもゑよ

六 71と、たすけ一条の親心ゆえの、厳しいもどかしさと、猶予出来ない急込みの程を誌されて居る。

 こうして、教祖は、赤衣を召して、自らが月日のやしろに坐す理を明らかに現わされた上、

一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、

四に、しっくりかんろだいてをどり桝井、と、四名の者に、直々、さづけの理を渡された。

これからハいたみなやみもてきものも

いきてをどりでみなたすけるで 

六 106

このたすけいまゝでしらぬ事なれど

これからさきハためしゝてみよ 

六 107

どのよふなむつかしきなるやまいでも

しんぢつなるのいきでたすける 

六 108さづけによって、どのような自由自在の守護をも現わし、心の底から病の根を切って、今迄にない珍しい真実のたすけをする、と教えられた。

これが、身上たすけのためにさづけの理を渡された始まりである。つゞいて、

五ッ いつものはなしかた、六ッ むごいことばをださぬよふ、七ッなんでもたすけやい、八ッ やしきのしまりかた、九ッ こゝでいつまでも、十ド ところのおさめかた、と、数え歌に現わして理を教え、お屋敷に勤める人々の心の置き所を諭された。

 この明治七年には、大和国園原村の西浦弥平、大阪の泉田藤吉、河内国の増井りん等が、信仰し始めた。

明治八年:

 年が明けると明治八年。教祖は、親神の思召のまゝに、第六号半ばから第十一号までのおふでさきを誌され、心のふしんを急ぎ、つとめの完成を急込まれた。

 当時、お屋敷では、前年に棟の上がった門屋の内造り最中であった。

ぢば定め:

 この形の普請と共に、子供の心も次第に成人して、こゝに、親神は、かんろだいのぢば定めを急込まれた。

 第八号には、

このさきハあゝちこゝちにみにさハり

月日ていりをするとをもゑよ

八 81

きたるならわがみさハりとひきやハせ

をなじ事ならはやくそふぢふ

八 82

そふぢしたところをあるきたちとまり

そのところよりかんろふだいを 

八 83

親神は、人々の身上に障りを付けてお屋敷へ引き寄せられ、引き寄せられて帰って来た人々は、地面を掃き浄める。そして、清らかな地面を歩いて、立ち止った所がかんろだいのぢばである、と教えられ、

第九号には、

月日よりとびでた事をきいたなら

かんろふだいをばやくだすよふ 

九 18

かんろたいすへるところをしいかりと

ぢばのところを心づもりを 

九 19

これさいかたしかさだめてをいたなら

とんな事でもあふなきハない

九 20とて、世界治めに大切な、かんろだいの据わるべきぢばを、定めて置く事が肝腎である。これさえ定めて置けば、どんな事が起って来ても一寸も心配はない、と教えられた。

 かくて、明治八年六月、かんろだいのぢば定めが行われた。

 教祖は、前日に、

「明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除して置くように。」と、仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除して置いた。

 教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。然る後、こかん、仲田、松尾、辻ます、檪枝村の与助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた処、皆、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止った。辻ますは、初めの時は立ち止らなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆と同じ所で足が地面に吸い付いて動かなくなった。こうして、明治八年六月二十九日、陰暦の五月二十六日に、かんろだいのぢばが、初めて明らかに示された。時刻は昼頃であった。

かんろだい:

 第九号には、更に、かんろだいに就いて詳らかに教えられて居る。

 かんろだいは、人間創造の証拠として元のぢばに据え、人間創造と成人の理を現わし、六角の台を、先ず二段、ついで十段、更に一段と、合わせて十三段重ねて、その総高さは八尺二寸、その上に五升入りの平鉢をのせ、天のあたえたるぢきもつを受ける台である。

 第十号に入ると、

月日にハなんでもかでもしんぢつを

心しいかりとふりぬけるで

一〇 99

このみちを上ゑぬけたる事ならば

ぢうよぢざいのはたらきをする

一〇 100

その頃、教祖は、「もう一度こわい所へ行く。案じな。」と、仰せられて居た。迫害弾圧の時代を前にして、親心の真実を述べ、神一条の道を通る者の心構えを諭し、自由自在の守護を請け合うて、ふし毎に揺ぎ勝な、そばな者の心を励まされてのお言葉である。

こかん身上障り:

 明治八年夏の頃、永年、教祖と艱難苦労を共にしたこかんが身上障りとなり、容体は次第に重くなった。

月日よりひきうけするとゆうのもな

もとのいんねんあるからの事 

一一 29

いんねんもどふゆう事であるならば

にんけんはぢめもとのどふぐや

一一 30魂のいんねんにより、親神は、こかんを、いつ/\迄も元のやしきに置いて、神一条の任に就かせようと思召されて居た。しかし、人間の目から見れば、一人の女性である。人々が、縁付くようにと勧めたのも、無理はなかった。こかんは、この理と情との間に悩んだ。

 第十一号前半から中頃に亙り、この身上の障りを台として、人間思案に流れる事なく、どこ/\迄も親神の言葉に添い切り、親神に凭れ切って通り抜けよ、と懇々と諭されて居る。

 更に、第十一号後半には、秀司夫妻に対して、

ことしから七十ねんハふう/\とも

やまずよハらすくらす事なら 

一一 59

それよりのたのしみなるハあるまいな

これをまことにたのしゆんでいよ 

一一 60身上に徴をつけ、筆に誌して、元の親里につとめ人衆として引き寄せた、元のいんねんある人々を仕込み、たすけ一条の根本の道たるかんろだいのつとめの完成を急がれた。

 明治八年夏から、秀司並びにこかんの身上障りと、門屋の内造りとが、立て合うた上に、九月二十四日(陰暦八月二十五日)には、教祖と秀司に対して、奈良県庁から差紙がついた。明日出頭せよ、との呼出しである。

奈良への御苦労:

 教祖は、何の躊躇もなくいそ/\と出掛けられた。教祖の付添いとしてはおまさ、折から患って居た秀司の代理としては、辻忠作が出頭した。

足達源四郎は村役人として同道した。こうして、教祖は、初めて奈良へ御苦労下され、種々と取調べを受けられた。

 抑々、天理王命というような神は無い。一体どこに典拠が有るのか。

何故病気が治るのか。などと質問した。それは山村御殿の時と変らなかったが、辻忠作に向っては、当時普請中の中南の門屋に就いて、経費の出所を訊いたので、これに対して忠作は、中山様より出された。と、答えた。

 教祖に対しても、種々と難問を吹き掛けた。教祖は、これに対して一一、明快に諭されたが、当時の役人達には、形の普請が心のふしんの現われである事など、とても了解できなかった。

こかん出直:

 九月二十七日(陰暦八月二十八日)、こかんが三十九歳で出直した。

この報せに、御苦労中の教祖は、特別に許可を受けて、人力車で帰られると、直ぐ、冷くなったこかんの遺骸を撫でて、「可愛相に。早く帰っておいで。」と、優しく犒われた。

 九月(陰暦八月)の取調べの結果は、その年の十二月になって、教祖に対し、二十五銭の科料に処すと通知があった。

表通常門竣功:

 門屋は、八年一杯に内造りが出来た。教祖は、北の上段の間からこゝへ移られ、その西側の十畳の部屋をお居間として、日夜寄り来る人々に親神の思召を伝えられた。

明治九年:

 年が明けると明治九年。絶え間なく鋭い監視の目を注いで居た当局の取締りが、一段と厳重になったので、おそばの人々は、多くの人々が寄って来ても、警察沙汰にならずに済む工夫は無いものか、と、智慧を絞った結果、風呂と宿屋の鑑札を受けようという事になった。が、この時、教祖は、「親神が途中で退く。」と、厳しくお止めになった。しかし、このまゝにして置けば、教祖に迷惑のかゝるのは火を賭るよりも明らかである。戸主としての責任上、又、子として親を思う真心から、秀司は、我が身どうなってもとの思いで、春の初め頃、堺県へ出掛けて許可を得た。お供したのは、桝井伊三郎であった。(註一)

しかし、このような人間思案は、決して親神の思召に添う所以ではない。

 この年、八月十七日(陰暦六月二十八日)には、大和国小坂村の松田利平の願によって、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎等の人々が、雨乞に出張した。

 この年には、河内国の板倉槌三郎、大和国園原村の上田嘉治郎、その子ナライト等が、信仰し始めた。

明治十年:

 翌明治十年には、年の初めから、教祖自ら三曲の鳴物を教えられた。

最初にお教え頂いたのは、琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、控は増井とみゑであった。

たまへ出生:

 明治十年二月五日(陰暦、九年十二月二十三日)、たまへが、秀司の一子として平等寺村で生れた。

このたびのはらみているをうちなるわ

なんとをもふてまちているやら 

七 65

こればかり人なみやとハをもうなよ

なんでも月日ゑらいをもわく

七 66

なわたまへはやくみたいとをもうなら

月日をしへるてゑをしいかり

七 72

たまへの誕生は、かねてから思召を述べて、待ち望んで居られた処である。教祖は、西尾ゆき等を供として、親しく平等寺村の小東家へ赴かれ、嫡孫の出生を祝われた。

 この年五月十四日(陰暦四月二日)には、丹波市村事務所の沢田義太郎が、お屋敷へやって来て、神前の物を封印した。秀司が、平等寺村の小東家へ行って不在中の出来事である。

 つゞいて、五月二十一日(陰暦四月九日)、奈良警察署から秀司宛に召喚状が来た。召喚に応じて出頭した秀司は、四十日間留め置かれた上、罰金に処せられ、帰って来たのは、六月二十九日(陰暦五月十九日)であった。その理由は、杉本村の宮地某が、ひそかに七草の薬を作り、これを、秀司から貰ったものである。と、警察署へ、誣告した為である。

 明治十年二月には、西南の役が起った。第十三号に、

せかいぢういちれつわみなきよたいや

たにんとゆうわさらにないぞや

一三 43

高山にくらしているもたにそこに

くらしているもをなしたまひい

一三 45

それよりもたん/\つかうどふぐわな

みな月日よりかしものなるぞ

一三 46世界中の人間は、皆親神の子供、互に真実の兄弟であり、他人というものは一人もない。高山谷底の差別ない魂を授けられて居る。人間の身体は親神からのかしものである、と諭され、つゞいて、

それしらすみなにんけんの心でわ

なんどたかびくあるとをもふて

一三 47

月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ

どふぞしいかりしよちさしたい

一三 48

これさいかたしかにしよちしたならば

むほんのねへわきれてしまうに

一三 49一列平等の真実を知らず、身上かりものの理を悟らず、骨肉互に鎬を削るの愚を歎かれ、親神の望みは、兄弟和楽の平和にあり、かんろだいのつとめは世界の平和を願うつとめである、と教えられた。

 この年には、大和国北檜垣村の岡田与之助(後の宮森与三郎)等が、信仰し始めた。

註一 明治九年四月十八日、奈良県は廃止され、堺県に合併さる。

第七章 ふしから芽が出る

 教祖は、八十の坂を越えてから、警察署や監獄署へ度々御苦労下された。しかも、罪科あっての事ではない。教祖が、世界たすけの道をお説きになる、ふしぎなたすけが挙がる、と言うては、いよ/\世間の反対が激しくなり、ます/\取締りが厳しくなった。しかし、それにも拘らず、親神の思召は一段と弘まって、河内、大阪、山城や、遠く津々浦々に及んだ。この勢は、又一層、世間の嫉み猜みを招き、ふしぎなたすけの続出する毎に、反対攻撃の声は、各地から奈良警察署へと集まった。

そして、その鉾先が悉くお屋敷へ、教祖へと向けられた。

 しかし、教祖は、親神の思召を理解出来ぬ人間心を、残念と誌して激しいもどかしさを述べられながらも、頑是ない子供の仕草として、些かも気に障えられる事なく、これ皆、高山から世界に往還の道をつけるにをいがけである、反対する者も拘引に来る者も、悉く可愛い我が子供である、と思召されて、いそ/\と出掛けられた。教祖は常に、「ふしから芽が出る。」と、仰せられた。

 迫害の猛火はいよ/\燃え盛ったが、しかも、それは、悉くにをいがけとなり、親神の思召は一段と弘まる一方であった。

明治十一年:

「講を結べ。」と、お急込み頂いたのは、文久、元治の頃に始まり、早くもその萌しはあったが、明治十一年四月頃には、秀司を講元とする真明講が結ばれて居た。小さいながらも、親神のお急込み通り、人々の喜びを一つに結ぶ講が出来て居たのである。世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衞、中尾休治郎で、講中の人々は、近在一帯の村々に及んだ。

 早くから渡されて居たはったい粉に次いで、金米糖を御供として渡されたのは、この明治十一年頃からである。

明治十二年:

 明治十二年六月から誌された第十四号に、

月日よりにち/\心せゑたとで

くちでわとふむゆうにゆハれん

一四6

それゆへにゆめでなりともにをいがけ

はやくしやんをしてくれるよふ

一四7

親神は、世界たすけを急込んで居るのに、そばな者の心はいずみ勝である。それは、官憲が親神の心を理解せず、人々がその官憲を憚って居るからであるが、これは誠に残念なことである。しかし、言葉では理解のつかない者をも、そのまゝ放って置くと言うのではなく、夢でなりともにをいがけをする、と誌されて居る。この一句に、迫り切った時旬と、切ないまでに子供を思われる親心のもどかしさが、あり/\と窺われる。

 又、第十四号では、親神の理を現わす文字を、月日からをやへと進められて居る。

いまゝでハ月日とゆうてといたれど

もふけふからハなまいかゑるで

一四 29かく宣べられて後、をやという文字を用いて、親神こそ、一列人間の切っても切れぬ親、理に於いて創造の親神であると共に、情に於いて血の通う肉親の親である事を明かし、親神の心は、どこ/\迄も一列子供を救けたい一条の親心であると宣べられた。

 この明治十二年には、国内でコレラが大そう流行った。

みのうちにとのよな事をしたとても

やまいでわない月日ていりや 

一四 21

せかいにハこれらとゆうているけれど

月日さんねんしらす事なり

一四 22世間ではコレラと言うて騒いで居るが、これも実は親神のてびきであって、一列人間の胸の大掃除を急いで居るのであると諭して、強く人々の反省を促された。

 この年、教祖は、上田ナライトを貰い受けなされた。又、河内国の高井直吉、大阪の井筒梅治郎、阿波国の土佐卯之助等が、信仰し始めた。

このように、寄り集う人々は、日一日とその数を増し、親神の思召に励まされて、いよ/\勇み立ち奮い立ち、道は八方へ弘まった。

 しかし、村人達の間では、尚反対が強く、天理さんのお陰で、親族や友人が村へ来ると、雨が降ったら傘を貸さねばならぬ。飯時になったら飯を出さねばならん。店出しが出たら子供が銭を費う。随分迷惑がかゝるから、天理さんを止めて貰いたい、さもなくば年々「ようない」を出して貰いたい。と、言った。又、夜参拝する人々には、頭から砂をかける、時によるとつき当って川へはめる、というような事もあった。

明治十三年:

 明治十三年の初め頃からは、一層激しくつとめを急込まれた。この年一月から誌された第十五号には、既に時旬は迫り切り、寧ろ時機を失する憂いさえある旨を諭されつゝも、

このたびハどんなためしをするやらな

これでしいかり心さだめよ

一五6

いかほどにせつない事がありてもな

をやがふんばるしよちしていよ

一五8

こらほどにさねんつもりてあるけれど

心しだいにみなたすけるで

一五 16

いかほどにさねんつもりてあるとても

ふんばりきりてはたらきをする

一五 17と、今からでもよい。心さえ入替えるならば、必ず救ける、と見捨てる事のない親心の程を誌されて居る。更に、

このさきわたにそこにてハだん/\と

をふくよふきがみゑてあるぞや

一五 59

たん/\とよふぼくにてハのこよふを

はしめたをやがみな入こむで 

一五 60と、多くの人々が、広い世界から親を慕うて寄り集まって来る有様を見抜き見通して、よふぼくの成人を待ち望まれた。

転輪王講社:

 人々は、親神の思召通りに勤めたいと希ったが、親神の急込んで居られる鳴物を入れてのつとめは、内緒に勤める事が出来ない。これを思う時、何でもよい、教会というものを置きさえすれば、教祖に御迷惑もかからず、つとめも仰せ通り出来るものを、と思った。

 恰もその頃、乙木村の山本吉次郎から、同村山中忠三郎の伝手を得て、金剛山地福寺へ願い出ては、との話があった。これに対して、教祖は、「そんな事すれば、親神は退く。」と、仰せられて、とても思召に適いそうにも思えなかったが、秀司は、教祖に対する留置投獄という勿体なさに比べると、たとい我が身はどうなっても、教祖の身の安全と人々の無事とを図らねば、と思い立ち、わしは行く。とて、一命を賭して出掛けた。しかし、お供をしようという者はない。この時、岡田与之助は、足のわるい方を一人行かせるには忍びないと、自ら進んでお供した。両名は芋ケ峠(通称芋蒸峠)を越えて吉野へ出、金剛山の麓にある久留野の地福寺へと赴いた。秀司は、平地は人力車に乗り、山道は歩いた。峠では随分困り、腰の矢立さえも重く、抜いて岡田に渡した程であった。こうして地福寺との連絡をつけて、帰って来たのは出発以来三日目であった。

 かくて、九月二十二日(陰暦八月十八日)には、転輪王講社の開筵式を行い、門前で護摩を焚き、僧侶を呼んで来て説法させた。応法のためとは言いながら、迂余曲折のみちすがらである。

 明治十三年九月三十日、陰暦八月二十六日には、初めて三曲をも含む鳴物を揃えて、よふきづとめが行われた。人々は、官憲の取締りも地福寺の出張所も全く眼中になく、たゞ一条につとめを急込まれる親神の思召のまに/\、心から勇んで賑やかに勤めた。

 開筵式を一つの契機として、講社名簿が整頓された。名簿は第一号から第十七号迄あって、中、第一号から第五号迄は大和国、その人数は五百八十四名、第六号から第十七号迄は河内国、大阪、その人数は八百五十八名、しめて千四百四十二名である。

 しかし、かゝる応法の道は、勿論、親神の思召に適う筈はなく、度々激しい残念立腹のお言葉を頂いた。親神は、外部からの圧迫をも内部の不徹底さをも一掃して、たゞ一条につとめに励めと急込まれ、ひたすらに、たすけの道たるかんろだいのつとめによって、広い世界の人々の心を澄まそう、と思召された。

 この年、秀司は上田嘉治郎と共に、丹波市分署へ一日留め置かれた。

翌年春の出直と思い合わせると、これが秀司にとって最後の留置であった。

 真之亮は、この年、十五歳で梶本の家から、元のやしきなる中山家へ移り住込むようになった。

 河内国の松田音次郎、備中国出身で、当時大阪在住の上原佐吉等が信仰し始めたのも、この年である。(註一)明治十四年:

秀司出直:

 秀司は、この暮から身上すぐれず、翌十四年四月八日(陰暦三月十日)、六十一歳で出直した。第十二号に、

みのうちにとこにふそくのないものに

月日いがめてくろふかけたで 

一二 118

ねんけんハ三十九ねんもいせんにて

しんばいくろふなやみかけたで

一二 119と、親神は、道を創める緒口として、何不自由のない秀司の身体に徴をつけられた。その後、秀司は、艱難苦労の中を通り、又、常に反対攻撃の矢表に立って、具さに辛酸を嘗めた。教祖は、出直した秀司の額を撫でて、「可愛相に、早く帰っておいで。」と、長年の労苦を犒われた。そして、座に返られると、秀司に代って、「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」と、仰せられた。つゞいて、こかん、おはるに代って、それ/\話された。

 元初まりの道具衆の魂は、いつ/\迄も元のやしきに留まり、生れ更り出更りして、一列たすけの上に働いて居られる。

かんろだい石出し:

 教祖は、第十六号の冒頭に、かんろだいのつとめの根本の理を明かされ、明治十四年の初めから、その目標たるかんろだいの石普請を急込まれた。この年五月五日(陰暦四月八日)、滝本村の山で石見が行われ、つゞいて五月上旬から、大勢の信者のひのきしんで、石出しが始まり、五月十四日(陰暦四月十七日)には、大阪からも、明心組、真明組等の人達が、これに参加するなど、賑やかな事であった。かくて、石材も調うた。

 応法の道の鬱陶しさを追い払うが如く、陽気なかんろだいの石普請が始まった。この頃誌された第十六号に、

けふの日ハなにもしらすにいるけれど

あすにちをみよゑらいをふくハん 

一六 33と、今日の日はいか程多くの難関が横たわって居ようとも、何ものにも曇らされない親心に照らされて、明日にも明るい往還の道が見えて来る、と、力強く人々を励まされた。又、第十六号の末尾に、

もふけふハなんてもかてもみへるてな

こくけんきたら月日つれいく 

一六 75

けふの日ハもふぢうふんにつんてきた

なんときつれにでるやしれんで

一六 76

さあしやんこれから心いれかへて

しやんさだめん事にいかんで 

一六 79と、極めて近い将来に、容易ならぬ時が来ると告げて、人々の心の入替えを促し、心定めを急込まれた。

十四年六月のふし:

 秀司の出直後、日尚浅く、涙も未だ乾かぬ六月の或る日の出来事として、真之亮の手記に、

十四年六月、巡査六人出張し、上段間に松恵様ヲ呼出シ尋問ノ上、教祖様ノ御居間ニ至リ、種々尋問セシ処、変リタル事ナキヨリ、説諭ノ上帰りたり。前夜、此事夢ニ見ル。

と、誌されて居る。

十四年九月のふし:

 明治十四年九月の御苦労は、十六、七日(陰暦閏七月二十三、四日)、止宿人届の手違いをきっかけとして起った。

 当時は、蒸風呂兼宿屋業の鑑札を受け、これを秀司名義にして居たので、宿泊した者は一々届け出る事になって居たが、この頃は参詣人が急に殖えて来た為に、忙しくてその暇が無かった。九月十六日には、大阪から、この年二月に信仰し始めた梅谷四郎兵衞、それから岸本久太郎外十一名、十七日夜には、長谷与吉外五名等が帰って来て泊ったが、それを届け出なかった。この事が、忽ち警察の知る処となって、直ちに、まつゑはじめ主だった人々を呼び出した。しかし、まつゑは櫟本へ行って不在のため、秀司の出直後、後見役のように家事万端の取締りに当って居た山沢良治郎が呼び出されて、九月十八日(陰暦七月二十五日)付手続書をとられ、同月二十六日(陰暦八月四日)付七十五銭の科料に処せられた。又、まつゑの実家の小東政太郎は、まつゑ不在の旨を断りに行った処、時刻が遅れたとて手続書をとられ、まつゑの実印を代って捺したと言うては叱られた。(註二)十四年十月の御苦労:

 越えて、この年十月七日(陰暦八月十五日)には、多数の人々を集めて迷わす、との理由によって、まつゑ、小東政太郎、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎の人々を、丹波市分署へ拘引し、手続書の提出を命じた上、それ/\五十銭宛の科料に処した。教祖をも拘引し、手続書をとり五十銭の科料に処した。

 当時、常にお屋敷に居た者は、教祖、まつゑ、真之亮、たまへ、梶本ひさ(後の山沢ひさ)、外に、仲田、辻、高井、宮森の人々であった。

但し辻は主として夜分、高井は月の中二十日位。山本は大てい布教に廻って居た。

 この明治十四年のふしは、明治八年の御苦労以来、六年振りの出来事である。教祖はこの時既に八十四歳であった。

 この年の或る日、教祖は、当時五歳のたまへに、「子供は罪のない者や、お前これを頒けておやり。」と、仰せられて、お召下ろしの赤衣で作った紋を、居合わせた人々に頒けさせられ、「親神様からこれを頂いても、めん/\の心次第で返さんならん者もあるで。」と、つけ加えられた。

 かねてから、教祖は、「こふきを作れ。」と、急込まれて居た。蓋し、教祖のお話し下さる筋を書き誌せ。との仰せで、明治十四年に纏められた、山沢良治郎筆、「此世始まりの御話控」は、その一つである。

 明治十四年春以来、かんろだいの石普請は順調に進み、秋の初めには二段迄出来た。第十七号には、元のぢばの理を詳らかに述べ、人間創造の証拠として、元のぢばにかんろだいを据えて置く。この台が皆揃いさえしたならば、どのような願もかなわぬという事はない。その完成までに、確り世界中の人の心を澄ますように、と、明るい将来の喜びを述べて、胸の掃除を急込まれた。

 しかし、その直後思いがけない事が起った。石工七次郎が突然居なくなったのである。測らずも、石普請はこゝに頓挫した。

 一見、偶然のように見えるこの出来事も、人々の心の成人につれ、又、つとめ人衆の寄り集まるにつれて、かんろだいは据えられる、と、第九号に諭されているお言葉と思い合わせると、護摩の煙に燻って、澄み切るには未だ早い実情であったと言えよう。それを思えば、この思いがけないふしも、実は、余りにも成人の鈍い子供心に対して、早く成人せよ、との、親心ゆえの激しいお急込みであった。

 明治十四年五月には大和国倉橋村の山田伊八郎が、九月には京都の深谷源次郎が、信仰し始めた。

 この頃には、講の数は、二十有余を数えるようになった。即ち、大和国の天元、誠心、積善、心実、心勇、河内国の天徳、栄続、真恵、誠神、敬神、神楽、天神(後に守誠)、平真、大阪の真心、天恵、真明、明心、堺の真実、朝日、神世、京都の明誠等である。

 又、この年十二月には、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が、真心組とも話し合った上、大阪阿弥陀池の和光寺へ、初めて教会公認の手続書を提出した。しかし、何等の返答も無かった。

註一 明治十四年二月七日には、堺県が廃止されて、大阪府に合併された。

註二

 就御尋手続上申書

 大和国山辺郡新泉村平民

山沢良治郎一、当国山辺郡三嶋村平民中山まつゑ祖母みきナル者赤キ衣服ヲ着シ家ニ者転輪王命ト唱ヘ祭り候始末就御尋問左ニ奉申上候

此段去ル明治十二年五月比私義咽詰病ニ而相悩候ニ付医薬ヲ相用ヒ種々養生仕候得共頓ト功験無之ニ付転輪社ヘ参詣旁入湯仕候所早速全快仕候ニ付明治十三年一月比迄壹ケ月ニ壹度宛参詣致居候然ルニ前病気中自分相応之世話可致之心願ニ付仝一月比ヨリ壹ケ月中ニ日数十五日之蒸気湯之世話致居候処仝年八月来右中山まつゑ夫中山秀治存命中ニ中山秀治宅ヲ転輪王講社并ニ当国宇智郡久留野村地福寺教会出張所ト設定相成候ニ就而者私ヘ転輪講社取締并ニ講社出納方地福寺社長ヨリ被申付則辞令証モ所持罷在候且者中山秀治足痛ニテ引籠居候義ニ付仝人ヨリ依頼ニ而日々相詰居候所右秀治義者本年四月十日比病死後仝人家内始親族ヨリ依頼ニ付家事万端賄仕居候義ニ御座候然ルニ右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者

四十四年以前ニ我月日ノ社ト貰受体内ヘ月日之心ヲ入込有之此世界及人間初而生シタルハ月日ノ両人ノ拵ル故人間ノ身内ハ神ノ貸物成ル此貸物ト云ハ

目ノ潤ハ月サマ是クニトコタチノ命暖ハ日サマヲモタリノ命皮繋ハクニサツチノ命骨ハツキヨミノ命飲喰出入ハクモヨミノ命息ハカシコ子ノ命右六神ノ貸物成ル故人間ニハ病気ト云ハ更ニ無之候得共人間ハ日々ニ貧惜憎可愛恨シイ立腹欲高慢此八ツノ事有故親ノ月日ヨリ異見成ル故悪敷所ヲ病トシテ出ル此神ヲ頼メハ何れモ十五歳ヨリ右八ツノ心得違讃下シテ願上レハ何事モ成就スル事ト被申候甘露台ト老母みき被申候ニ者人間始メノ元ハ地場之証拠是ハ人間之親里成故甘露台数拾三創立スル所明治十四年五月ヨリ本日迄ニ弐台出来上リ有之尤甘露台者石ヲ以テ作リ下石軽(マヽ)三尺弐寸上石軽(マヽ)壹尺貳寸六角高サ八尺二寸ニ御坐候然ルニ私共ニ於テ者参詣人ヘ対シ前記老母みき被申候義ヲ咄致候而己ニテ祈祷許候様者決テ仕間敷候右就御尋手続書ヲ以此段有体奉上申候也

明治十四年九月十八日

 右

 山沢良治郎

第八章 親心

神:

このよふを初た神の事ならば

せかい一れつみなわがこなり

四 62

いちれつのこともがかハいそれゆへに

いろ/\心つくしきるなり 

四 63

人間は、親神によって創造され、その守護によって暮して居る。故に、親神と人間とは真の親子であり、この世の人間は一列兄弟である。この理により、親神の心は、昔も今も子供可愛い一条である。

月日:

なに事もこのところにハにんけんの

心ハさらにあるとをもうな 

六 67

どのよふな事をゆうにもふでさきも

月日の心さしすばかりで

六 68

教祖の心は月日の心、月日の心とは親神の心である。教祖の心こそ、無い人間無い世界を創められた元の神・実の神、親神天理王命の心である。更に、をや:

にんけんもこ共かわいであろをがな

それをふもをてしやんしてくれ

一四 34

にち/\にをやのしやんとゆうものわ

たすけるもよふばかりをもてる

一四 35

をやの一語によって、親神と教祖の理は一つであり、親神の心こそ教祖の心、教祖の心こそ親神の心であることを教えられた。

 抑々、親とは、子供から仰ぎ見た時の称名であり、子供無くして親とは言い得ない。親神の心とは、恰も人間の親が自分の子供に懐く親心と相通じる心で、一列人間に対する、限り無く広く大きく、明るく暖かい、たすけ一条の心である。

 我々は、この親心をおふでさき、みかぐらうた、おさしづに拝し、ふしぎなたすけに伺い、教祖の面影や足跡に偲ぶ。

面影:

 高齢の教祖にお目に掛った人々は皆、譬えようもない神々しさと、言葉に尽せぬ優しさとが、不思議にも一つとなって、何となく胸打たれ、しかも心の温まる親しさを覚えた。

 教祖は、中肉中背で、やゝ上背がお有りになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色もよく、鼻筋は通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常ににこやかな中にも、神々しく気品のある面差であられた。

 お髪は、年を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真白であられたが、いつもきちんと梳って茶筅に結うて居られ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた。

 眼差は、清々しく爽やかに冴えて、お目に掛った人々は、何人の心の底をも見抜いて居られるというのはこのような眼か、と思った。

 足腰は、大そう丈夫で、年を召されても、腰は曲らず、歩かれる様子は、いかにも軽ろやかで速かった。

 教祖にお目に掛る迄は、あれも尋ね、これも伺おうと思うて心積りして居た人々も、さてお目に掛ってみると、一言も承わらないうちに、一切の疑問も不平も皆跡方もなく解け去り、たゞ限りない喜びと明るい感激が胸に溢れ、言い尽せぬ安らかさに浸った。

 お声は、平生は優しかったが、刻限々々に親心を伝えられる時には、響き渡るような凛とした威厳のある声で、あれが年寄った方の声か、と思う程であった。

 教祖は、子供に対しても、頗る丁寧に、柔らか優しく仰せられたというが、その優しいお言葉に、ひながたの親としての面影を偲び、刻限刻限に親神の思召を伝えられた、神々しくも厳かなお声に、月日のやしろとしての理を拝する。厳しく理を諭し、優しく情に育くんで、人々を導かれた足跡に、教祖の親心を仰ぐ。

おふでさきの意義:

 おふでさきには、

このよふハりいでせめたるせかいなり

なにかよろづを歌のりでせめ

一 21

せめるとててざしするでハないほどに

くちでもゆハんふでさきのせめ 

一 22

なにもかもちがハん事ハよけれども

ちがいあるなら歌でしらする

一 23と、耳に聴くだけでは忘れ易い人々の上を思うて、いつ/\までも、親の思いにそのまゝ触れる事の出来るようと、筆に誌し、何人にも親しみ易く覚え易く、和やかに悟りとる事の出来るようにと、歌に誌されたのも、深い親心からである。

 当時の様子について伝えられる処によると、親神の、「筆、筆、筆をとれ。」との、お急込みのまに/\、筆を執られると、日中は勿論のこと、暗闇の夜中でさえ、筆が走り、親神の思召を誌し了えられると、ぴたりと筆が止まったという。

 かくて誌されたおふでさきは、第一号、第二号と数えて、十七冊に綴られ、明治二年から十五年頃まで、お年にして七十二歳から八十五歳頃に亙り、お歌の数は千七百十一首である。

十七号:

第一号明治貳巳年正月従

第二号明治貳巳年三月

第三号明治七戌年一月ヨリ

第四号明治七年四月

第五号明治七年五月

第六号明治七年十二月ヨリ

第七号明治八年貳月

第八号明治八年五月

第九号明治八年六月

第十号明治八年六月

第十一号 明治八年六月

第十二号 明治九年頃

第十三号 明治十年頃

第十四号 明治十貳年六月ヨリ

第十五号 明治十三年一月ヨリ

第十六号 明治十四年四月ヨリ

第十七号 明治十五年頃 (註一)おふでさきの大意:

 おふでさきに誌された親神の思召の大意は、

親神は、陽気ぐらしを望みとして、元のぢばに於いて人間を創めた。

一列人間の真実の親であり、その心は、子供可愛い一条である。人間は皆、親神の子供、従って、世界一列の人間は互に兄弟姉妹であり、互い立て合い扶け合うこそ、本来の人間生活である。

 人間の身体は、親神のかしもの、人間にとってはかりもの、心一つが我がの理である。病気や災難は皆、子供可愛い親心から、人間の心得違いを反省させて、陽気ぐらしへ導こうとの、よふむき、てびき、みちをせ、いけん、ざんねん、りいふく等に他ならぬ。心を入替え、ほこりを払い、誠真実の心を定めて願うならば、どのような自由自在のたすけをも引き受ける。

 この度、親神は、元の約束により、魂のいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理の合図立合いをまって、みきをやしろとして、初めてこの世の表に現われ、たすけ一条の道を教える。

 人間世界創め出しの証拠として、元のぢばにかんろだいを据え、たすけ一条の根本の道として、これを圍んで勤めるかんろだいのつとめを教え、更に、身上たすけのためにさづけを渡す。

 つとめによってよろづたすけを現わし、さづけによってどのような難病をも救ける。かくて、この世は次第に陽気ぐらしの世界へと立替わる。

 一刻も早くつとめ人衆打揃い、心を合わせ、手を揃え、鳴物を整えて、一手一つにつとめをせよ。

と、この世元初まり以来の思召たる陽気ぐらしを、この地上に現わそうとて、かんろだいのつとめを教え、その理を納得させようとて、世界創造の元の理を明かし、時旬の迫るまゝに、一層激しく子供の心の成人を促しつゝ、ひたすらにつとめの完成を急込まれた。

 おふでさきは、全巻どこを繙いても、到るところ皆暖かい親心が溢れ、その親心は明るい陽気ぐらしへと続く。先ず第一号には、

だん/\と心いさんてくるならバ

せかいよのなかところはんじよ 一9

抑々この世の元初まりに、親神は陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思召されて、人間世界を創められた。陽気ぐらしこそ、親神の思召である。然るに、人間は、心の成人の未熟さから、いかに智恵学問は進んでも、元を知らず親を知らず、元初まりの本真実を知らぬまゝに、ほこりを積みいんねんを重ねて、この世を憂世とかこって来た。

つとめ:

 この人間を、元初まり以来の長の歳月、時により所に応じて成人に相応わしく、修理や肥で仕込みつゝ、這えば立て立てば歩めと、導き育てて来られたのも親心であり、この度、旬刻限到来して、陽気ぐらしを、もう一度、この世に現わしたい。と、たすけ一条の道を創められたのも、正しくこの子供可愛い一条の親心からである。この親心から、陽気ぐらしへの道として、終始一貫、実現を急込まれたのがつとめである。つゞいて、

このさきハかくらづとめのてをつけて

みんなそろふてつとめまつなり 

一 10

みなそろてはやくつとめをするならバ

そばがいさめバ神もいさむる 

一 11

いちれつに神の心がいづむなら

ものゝりうけかみないつむなり 

一 12

りうけいのいつむ心ハきのとくや

いづまんよふとはやくいさめよ 

一 13

りうけいがいさみでるよとをもうなら

かぐらつとめやてをとりをせよ 

一 14と、親神は、かぐらづとめを待ち兼ねる。皆揃うて早くつとめをするならば、親神も勇み、親神が勇めば、農作物も豊かに稔る。豊年満作の希望に充ちて、早くかぐらやてをどりをせよ、と促された。

 第二号に進むと、

ちやつんであとかりとりてしもたなら

あといでるのハよふきづとめや 

二3

このつとめとこからくるとをもうかな

上たるところいさみくるぞや

二4と、茶摘みも終りその後の刈取りも済んだならば、よふきづとめの旬が来て、上に立つ人々の心も勇み立ち、やがて往還道が始まる、と教え、

なにゝてもやまいいたみハさらになし

神のせきこみてびきなるそや

二7

せきこみもなにゆへなるとゆうならば

つとめのにんぢうほしい事から 

二8と、つとめの完成を急ぐ上から、身上に徴をつけて、つとめ人衆を引き寄せる、と諭された。

にち/\によりくる人にことハりを

ゆへばだん/\なをもまあすで 

二 37

 いかほどのをふくの人がきたるとも

なにもあんぢな神のひきうけ

二 38

めつらしいこのよはじめのかんろたい

これがにほんのをさまりとなる 

二 39

世界の思わくを慮って、親里を慕うて帰り来る人に断りを言えばとて、帰り来る人は弥増すばかりであるが、親神が引き受けるから何も案じる事はない。この世初めの元のぢばに、かんろだいを据えて、つとめに掛れば、この世は理想の陽気ぐらしの世となる、と、こゝに初めて、かんろだいに就いて教えられた。

 第三号に入ると、

しんぢつに神の心のせきこみわ

しんのはしらをはやくいれたい 

三8

このはしらはやくいれよとをもへども

にごりの水でところわからん

三9

この水をはやくすまするもよふだて

すいのとすなにかけてすませよ 

三 10

このすいのどこにあるやとをもうなよ

むねとくちとがすなとすいのや 

三 11

このはなしすみやかさとりついたなら

そのまゝいれるしんのはしらを 

三 12

はしらさいしいかりいれた事ならば

このよたしかにをさまりがつく 

三 13と、つとめの完成を急ぐ上から、その目標であるかんろだいの仕度を急がれ、

せかいぢうむねのうちよりしんばしら

神のせきこみはやくみせたい

三 51

せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ

神がほふけやしかとみでいよ

三 52と、かんろだいの仕度を急ぐと共に、道の中心たるしんばしらを定める上から、親神の思召に照らし、親神を、己が胸のほこりを払う箒として、心を入替えるよう、人々の反省を促された。

十一に九がなくなりてしんわすれ

正月廿六日をまつ 

三 73

このあいだしんもつきくるよくハすれ

にんぢうそろふてつとめこしらゑ

三 74

教祖がやしろの扉を開いて、世界ろくぢに均らすべく踏み出される日を予め告げて、それ迄に、つとめ人衆揃うてつとめの仕度を急げ、と、強く心の成人を促された。更に、

にち/\に神の心のせきこみハ

ぢうよじざいをはやくみせたい 

三 75

これからハにんぢうそろをてつとめする

これでたしかににほんをさまる 

三 76

しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに

なにもこわみハさらにないぞや 

三 77

親神は、一刻も早く自由自在の守護を見せたいと思うて居るから、人衆揃うてつとめをするように。これで確かにこの世は治まる。たすけこそ、つとめにこもる真意であるから、いかなる迫害干渉も決して怖れることはない、と、励まされた。

 第四号に入ると、

をもしろやをふくの人があつまりて

天のあたゑとゆうてくるそや

四 12

にち/\にみにさハりつくまたきたか

神のまちかねこれをしらすに

四 13

だん/\とつとめのにんぢうてがそろい

これをあいつになにもでかける 

四 14

大勢の人々が天のあたえを求めて寄り集う喜びを述べ、つとめ人衆の手が揃いさえしたならば、それを合図につとめに掛る。

にち/\によふきづとめのてがつけば

神のたのしゆみいかほとの事

四 23

はや/\とつとめのにんぢうまちかねる

そばな心わなにをふもうや 

四 24

親神は、どれ程その日を楽しみに待ち望んで居る事か。そばの者達も、この親心に添うて早くつとめの仕度に掛れ、と、急込まれた。

またさきのよふきづとめをまちかねる

なんの事ならかぐらつとめや

四 29

かぐらづとめこそ、親神の待ち望まれるよふきづとめである。

しんぢつに心いさんでしやんして

神にもたれてよふきづとめを

四 49

たゞ一条に親神に凭れ、心勇んでよふきづとめに励め、と諭された。

これからハこのよはじめてないつとめ

だん/\をしへてをつけるなり 

四 90

このつとめせかいぢううのたすけみち

をしでもものをゆハす事なり

四 91

にち/\につとめのにんぢうしかとせよ

心しづめてはやくてをつけ 

四 92

このつとめなにの事やとをもている

せかいをさめてたすけばかりを 

四 93

このみちがたしかみゑたる事ならば

やまいのねゑわきれてしまうで 

四 94

この世元初まって以来、未だ曾て無いつとめ。世界たすけの根本の道である。つとめ人衆は、早く手振りを習い覚えよ。つとめさえ確りと勤めるように成ったならば、世界は治まり、病の根は切れて了う、と教えられた。

 第五号には、

このたびハなんでもかでもむねのうち

そふちをするでみなしよちせよ 

五 26

むねのうちそふぢをするとゆうのもな

神のをもハくふかくあるから

五 27

このそふぢすきやかしたてせん事に

むねのしんぢつわかりないから 

五 28

この心しんからわかりついたなら

このよはぢまりてをつけるなり 

五 29

一列人間の胸の掃除を急込まれ、胸の掃除も済み、心の真実を見定めたならば、いよ/\陽気世界創め出しの手振りを教える。と諭された。

 第六号に入ると、

このみちハどふゆう事にをもうかな

このよをさめるしんぢつのみち 

六4

上たるの火と水とをわけたなら

ひとりをさまるよふきづくめに 

六5

この火水わけるとゆうハこのところ

よふきづとめをするとをもゑよ 

六6

このよふをはじめかけたもをなぢ事

めづらし事をしてみせるでな

六7

このよふをはじめてからにないつとめ

またはじめかけたしかをさめる 

六8

この道こそ、世界に真実の治まりを齎らすたゞ一つの道である。火と水が各々分を守って、しかも互に相和する時、こゝに陽気づくめの平和世界が来る。この治まりを現わそうと思うて、こゝ、元のぢばに、親神の人間世界創め出しの働きをそのまゝに、よふきづとめを行い、陽気ぐらしを現わす、と教えられた。

 第七号に進むと、

どのよふなたすけするのもみなつとめ

月日ゆうよにたしかするなら

七 83

しんぢつの心あるなら月日にも

しかとうけやいたすけするぞや 

七 84

このたびハたすけするのもしんぢつに

うけよてたすけいまがはじめや 

七 85

こらほどに月日の心せゑている

そばの心もつとめこしらゑ 

七 86

このもよふなにばかりてハないほどに

とんな事でもみなつとめやで

七 87

つとめでもをなぢ事てハないほどに

みなそれ/\とてへをふしゑる 

七 88と、親神は、よろづたすけの思召から、つとめの仕度を促され、

なにもかもよふきとゆうハみなつとめ

めづらし事をみなをしゑるで 

七 94

たん/\とつとめをしへるこのもよふ

むねのうちよりみなそふぢする

七 95

あとなるハにち/\心いさむでな

よろづのつとめてへをつけるで 

七 96

このつとめどふゆう事にをもうかな

をびやほふそのたすけ一ぢよふ

七 97

このたすけいかなる事とをもうかな

ほふそせんよのつとめをしへる 

七 98

このみちをはやくをしへるこのつとめ

せかい一れつ心すまする

七 99

このはなしどふゆう事にきいている

せかいたすけるもよふばかりを 

七 100

かんろだいのつとめの手は、よろづたすけの場合と、願に相応わしく、をびや、ほふそ、一子、跛、肥、萠え出、虫払い、雨乞、雨あずけ、みのり、むほんの場合と、合計十二通りを教えられ、身は健やかに齢永く、稔り豊かに家業栄え、世界が平和に治まるよう、何欠ける事のない陽気ぐらしを引き受けられた。

 第八号には、たすけづとめという文字が見出される。

それゆへにたすけづとめがでけんから

月日の心なんとさんねん

八6

第九号に入ると、専らつとめの目標たるかんろだいについて諭され、

これからハなにのはなしをするならば

かんろふだいのはなし一ぢよ

九 44

いまなるのかんろふだいとゆうのハな

一寸のしながたまでの事やで

九 45

これからハだん/\しかとゆてきかす

かんろふだいのもよふばかりを 

九 46

このだいをすこしほりこみさしハたし

三尺にして六かくにせよ

九 47

いまゝでにいろ/\はなしといたるハ

このだいすへるもよふばかりで 

九 48

これさいかしいかりすへてをいたなら

なにもこわみもあふなきもない 

九 49

月日よりさしずばかりでした事を

これとめたならハがみとまるで

九 50

これをみてまことしんぢつけへこふと

これハ月日のをしゑなるかよ 

九 51

このだいがでけたちしだいつとめする

どんな事でもかなハんでなし

九 52

このだいもいつどふせへとゆハんでな

でけたちたならつとめするぞや

九 53

これさいかつとめにかゝりでたならば

なにかなハんとゆうでないぞや 

九 54

これをみよたしかに月日ぢきもつの

あたゑしいかりたしかわたする 

九 55

とのよふな事でもたしかしんちつの

しよこなけねばあやうきい事

九 56

心の成人につれて、かんろだいの仕度も亦進み、この台を圍み、人衆を揃え心を一つにして勤める時、親神は、天のあたゑたるぢきもつを授けられ、どのような願も皆、鮮やかにかなえられる。

これからハとのよな事もたん/\と

こまかしくとくこれそむくなよ 

九 57

このはなしなにをゆうやとをもうなよ

かんろふだいのもよふ一ぢよ

九 58

このだいもたん/\/\とつみあけて

またそのゆへハ二尺四すんに

九 59

そのうゑゝひらばちのせてをいたなら

それよりたしかぢきもつをやろ 

九 60

ぢきもつをたれにあたへる事ならば

このよはじめたをやにわたする 

九 61

天よりにあたへをもらうそのをやの

心をたれかしりたものなし

九 62

月日よりたしかに心みさだめて

それよりハたすぢきもつの事

九 63

月日にハこれをハたしてをいたなら

あとハをやより心したいに 

九 64

親神の仰せのまに/\、かんろだいの仕度を進め、一段々々と積み上げ、最上段の上に平鉢を載せて置いたなら、天からをやへ確かにぢきもつを渡される。人は皆、をやから心次第にぢきもつを授けられて、身健やかに定命まで置いて頂き、この世は陽気ぐらしの世界となる。

 第十号に進むと、専らかんろだいのつとめに就いて教えられ、

たん/\とにち/\心いさむでな

なんとやまとハゑらいほふねん

一〇 18

にち/\にはやくつとめをせきこめよ

いかなるなんもみなのがれるで

一〇 19

とのよふなむつかしくなるやまいでも

つとめ一ぢよてみなたすかるで

一〇 20

つとめでもどふゆうつとめするならば

かんろふだいのつとめいちゞよ

一〇 21

このたいをどふゆう事にをもうかな

これにいほんのをやであるぞや

一〇 22

これさいかまことしんぢつをもうなら

月日みハけてみなひきうける 

一〇 23

月日よりひきうけするとゆうからわ

せんに一つもちがう事なし

一〇 24

つとめによって、豊かな稔りと爽やかな健康とを請け合い、いかなる病をも救け、凡ゆる災いをも祓う。これが、かんろだいのつとめであり、これこそ、世界陽気ぐらしの根本である。これを信じるなら、必ず自由自在の守護を引き受ける。と誌され、

このはなしどふゆう事にきいている

かんろふだいのつとめなるのわ

一〇 25

一寸したるつとめなるとハをもうなよ

三十六人にんがほしいで 

一〇 26

そのうちになりものいれて十九人

かぐらづとめの人ぢうほしいで

一〇 27

かんろだいを圍んで勤める人衆が十人、鳴物が九人、と、それ/\に数字を挙げて教え、てをどり及びがくにんを加えて、七十五人のつとめ人衆を教えられた。

しんぢつに心さだめてしやんせよ

とりつぎの人しかとたのむで 

一〇 28

このだいをこしらゑよとてたん/\に

月日人ぢうのもよふするなり 

一〇 29

人ぢうがしかとよりたる事ならば

そのまゝだいもでける事やで 

一〇 30

つゞいて、取次を促して人衆揃えを急込まれ、人衆さえ揃うて来たならば、かんろだいも自ら出来て来る、と諭された。更に、

このみちハどふゆう事であるならば

月日つとめのてゑをふしへて 

一〇 31

それよりも月日一れつせかゑぢう

つれてゞたならひとりでけるで

一〇 32

人衆を集め、つとめの手振りを教えて、世界中へ連れて出たならば、自らかんろだいも出来て来る、と、つとめの完成を急ぐ上から、人衆揃えに併せて手振りの稽古を急がれ、

これさいかたしかにでけた事ならば

月々つとめちがう事なし 

一〇 33

つとめさいちがハんよふになあたなら

天のあたゑもちがう事なし

一〇 34

このみちハまことしんぢつむつかしい

みちであるぞやみなしやんせよ

一〇 35

かんろだいさえ据わったならば、月々のつとめも間違いなく勤める事が出来るようになる。つとめを確り勤めるならば、天のあたえにも決して間違いはない。心さえ定まったならば、どのような守護も願のまゝである、と請け合われた。

この人ぢうどこにあるやらしろまいな

月日みわけてみなひきよせる 

一〇 36

どのよふなところのものとゆうたとて

月日ぢうよふしてみせるでな 

一〇 37

だん/\と人ぢうそろふたそのゆへで

しんぢつをみてやくわりをする

一〇 38

やくハりもどふゆう事であるならば

かぐら十人あといなりもの

一〇 39

これさいかはやくしいかりそろたなら

どんな事でもでけん事なし

一〇 40

このつとめ人衆が、何処に居るのか、皆の者には分らないであろうが、どのような所に居ても、親神は、自由自在に引き寄せる。だん/\と人衆が揃うたその上で、心の真実を見定めて役割をする。かぐら十人を初め、鳴物の人衆が揃うたならば、どんな事でも出来ないという事はない、と、つとめの完成の上に、自由自在の守護を引き受けられた。

 第十三号に入ると、

月日よりしんぢつをもう高山の

たゝかいさいかをさめたるなら

一三 50

このもよふどふしたならばをさまろふ

よふきづとめにでたる事なら 

一三 51

この心たれがゆうとハをもうなよ

月日の心ばかりなるぞや 

一三 52

このつとめ高山にてハむつかしい

神がしいかりひきうけをする 

一三 53

このたびわどんな事でもしんちつに

たしかうけやいはたらきをする

一三 54

親神は、心の底から戦の治まりを望む。戦は、傲り高ぶる人間心から起る。いかにもして、戦をこの世から無くしたいとの思いから、親神は、かんろだいのつとめを始める。かんろだいのつとめは、世界平和のつとめである。しかも子供たる人間は、親神のこの真実を知らずして、徒らに差止める。しかし、迫害も干渉も少しも恐れることはない。親神は、確かに引き受けて自由自在の守護を現わす、と教えられた。

 第十四号に入ると、

この事ハなにの事やとをもうなよ

つとめなりものはやくほしいで

一四 85

もふけふわどんな事をばしたとても

なにもあんぢなをやのうけやい

一四 86

いまゝでハ上にわなにもしらんから

さしとめはかりいけんしたれと

一四 87

このたびハどんなものでもかなハんで

ゆう心ならをやがしりぞく

一四 88

この事をはやく心しいかりと

さだめをつけてはやくかゝれよ

一四 89

なにもかもはやくつとめのしこしらへ

をやのうけやいこわみないぞや

一四 90

これをはな心さだめてしやんして

はやくにんぢうのもよふいそぐで 

一四 91

はや/\と心そろをてしいかりと

つとめするならせかいをさまる

一四 92

一日も早く鳴物を揃えるようにと急込まれ、人衆揃えの急込みをも続けつゝ、どのような迫害にも怖じず恐れない強い信念、堅く揺がぬ誠真実の心を定めよ、この堅い心定めの上に、親神は、自由自在の守護を請け合う、早々と心を合わせ手を揃えて勤めるならば、必ず世界の治まりを守護する、と、かんろだいのつとめによって、世界の平和を引き受けられた。

 更に、第十五号には、

このはなしなにを月日がゆうたとて

どんな事てもそむきなきよふ 

一五 26

これからのをやのたのみハこればかり

ほかなる事わなにもゆハんで 

一五 27

この事をなにをたのむとをもうかな

つとめ一ぢよの事ばかりやで 

一五 28

このつとめこれがこのよのはぢまりや

これさいかのた事であるなら 

一五 29

さあけふハをやのゆう事なに事も

そはの心にそむきなきよふ

一五 30

親の頼みという言葉を用いて、切々たる親心の急込みを述べられ、このつとめによって陽気ぐらしの世界が創造されるのであるから、どうでも親の言葉に背かぬよう、親の心に違わぬよう、早くつとめをして貰いたい、と、懇々と諭された。つゞいて、

けふの日ハほんしんちつをゆいかける

とふぞしいかりしよちしてくれ

一五 49

このはなし四十三ねんいせんから

ゑらいためしがこれが一ちよ 

一五 50

このためしなにの事やとをもうかな

つとめ一ぢよせくもよふやで 

一五 51

このつとめどふゆう事にをもうかな

なりもの入て人ちうのもよふ 

一五 52

このつとめどんなものでもしやんせよ

これとめたならわがみとまるで

一五 53

このよふをはじめかけたもをなぢ事

ないにんけんをはちめかけたで

一五 54

これさいかはじめかけたる事ならば

とんなたすけもみなうけやうで

一五 55

今こそ、親心の本真実を言い聞かせる。どうか心を鎮めて確りと聞いて貰いたい。四十三年以前からためしをかけて急込んで来たのは、つとめである。そのつとめの時が迫って来たから、早く、鳴物や人衆を揃える段取をせよ。もしも、つとめを止めるならば、その者の息の根が止まって了う。親神は、紋型無いところから、人間を創めたと同じく、このつとめによって、どのようなたすけも皆引き受ける、と諭して、いよいよ激しく厳しく、つとめを促された。つゞいて、

さあたのむなにをたのむとをもうかな

はやくなりものよせてけいこふ

一五 72

これまてハとんな事てもちいくりと

またをさまりていたるなれども

一五 73

もふけふわなんてもかでもはや/\と

つとめせゑねばならん事やで 

一五 74と、特に鳴物の稽古を急込んで、もう今日は、どうでもこうでも、つとめをせねばならぬ時が来て居ると、促され、更に、

このみちハ四十三ねんいせんから

まことなんぢうなみちをとふりた 

一五 83

その事をいまゝでたれもしらいでも

このたびこれをみなはらすでな

一五 84

このはらしどふしてはらす事ならば

つとめ一ぢよてみなあらハすで

一五 85

このつとめをやがなに事ゆうたとて

とんな事てもそむきなきよふ 

一五 86

こればかりくれ/\たのみをくほとに

あとでこふくハいなきよふにやで 

一五 87

このたびのつとめ一ちよとめるなら

みよだいなりとすぐにしりぞく

一五 88

このはなしなんとをもふてそはなもの

もふひといきもまちていられん

一五 89

はや/\となりものなりとたしかけよ

つとめはかりをせへているから

一五 90

迫りに迫った親心の急込みの程を、諄々としかも切々と、時には厳しく、時には懇ろに書き誌し教え諭して、人々の心の成人を促し、時旬に遅れないようつとめを行えと急込まれた。

 第十六号に入ると、かぐらの理の根本に遡って、

いまゝてハこのよはじめたにんけんの

もとなる事をたれもしろまい 

一六1

このたびわこのもとなるをしいかりと

とふぞせかいゑみなをしゑたい

一六2

このもとハかぐらりよにんつとめハな

これがしんぢつこのよはしまり

一六3

このたひのかぐらとゆうハにんけんを

はじめかけたるをやであるぞや

一六4

人間創造の根本の理は、かぐら両人によって現わされて居る。この両人は、親神の理を受けて勤めるものであり、このかぐらに、人間創造の真実の親たる親神・天理王命の理がこもる、と教えられた。つゞいて、

このさきハとのよなゆめをみるやらな

もんくかハりて心いさむで

一六 27

とのよふなめづらしゆめをみるやらな

これをあいつにつとめにかゝれ

一六 28

迫りに迫った時旬と、子を思うゆえに急ぎに急がれる親心から、珍らしい夢を見たならば、その夢を合図に、つとめにかゝれと、夢に迄急込んで、早くつとめをせよ、と諭され、

月日よりないにんけんやないせかい

はじめかけたるをやであるぞや

一六 53

そのところなにもしらざる子共にな

たいことめられこのさねんみよ

一六 54と、親心の真実を悟らない子供の妨げを責められた上、

月日よりせかいぢうをばはたらけば

このをさめかたたれもしろまい

一六 63

それゆへにこのしづめかた一寸しらす

一れつはやくしやんするよふ 

一六 64

つとめてもほかの事とわをもうなよ

たすけたいのが一ちよばかりで

一六 65

それしらすみなたれにてもたん/\と

なんどあしきのよふにをもふて

一六 66

にんけんハあざないものてあるからな

なにをゆうともしんをしらすに

一六 67

けふまてわとんな事てもゆハなんだ

ぢいとしていたこのさねんみよ

一六 68

親神の残念立腹が現われて来たならば、これを治める道は、つとめより他にはない。つとめこそ、どのような異変、どのような災難をも治める唯一の道である。然るに、これを差止め、又、躊躇うて来た人間心の浅はかさは、まことにもどかしい限りである、と、強く人々の反省を促して、つとめを急込まれた。

月日のやしろとひながたの親:

 このように、生涯を一貫し、おふでさき全巻を通じて、つとめを急込み続けられた教祖の御立場を、理の上からと、お姿の上からと、この両面から詳しく拝察しよう。

 教祖は一面に於いて、月日のやしろとして理を説かれた。しかも、他の半面に於いては、地上に於ける親として、人々によく分るようにとて、自らの身に行い、自ら歩んで人々を導かれた。共に、真実の親たる教祖の御立場である。

どのよふなたいしや高山ゆたんしな

なんとき月日とんてゞるやら

六 92

時が迫り切ったから、もう月日が飛び出る、と、仰せられて居るかと思えば、

いまゝでハせかいぢううハ一れつに

めゑ/\しやんをしてわいれども 

一二 89

なさけないとのよにしやんしたとても

人をたすける心ないので 

一二 90

これからハ月日たのみや一れつわ

心しいかりいれかゑてくれ

一二 91

この心どふゆう事であるならば

せかいたすける一ちよばかりを

一二 92

このさきハせかいぢううハ一れつに

よろづたがいにたすけするなら

一二 93

月日にもその心をばうけとりて

どんなたすけもするとをもゑよ

一二 94

どうか、一列人間は確りと心を入替えて、たすけ一条の心に成って貰いたい。人間が、互に立て合い扶け合う心にさえなったならば、親神は、どのようなたすけをも引き受ける。と、優しく懇ろに切々と、一列人間の心の入替えを促され、尚も、

いまゝでハとんな心でいたるとも

いちやのまにも心いれかゑ

一七 14

しんぢつに心すきやかいれかゑば

それも月日がすぐにうけとる 

一七 15決して見捨てるのではない。心さえ入替えたならば、一夜の間にも救ける、と、心の入替えを急込みつゝ、尽きぬ親心を誌されて居る。

 本来、親神と、その思召のまゝに創られた人間とは、親子であって、決して、縁もゆかりもない間柄ではない。しかし、心の自由を与えられた人間は、長の年限の間に、我が身勝手な心遣いをして、ほこりを積み重ねて来た。この人間思案と、終始変らぬ月日の心との間には、一見、縁のない間柄と思われそうな隔たりが感ぜられるようになった。その結果、容易には親の声を理解出来難い、人間世界となって居るのが、現状である。

 かゝる中にあって、親神の思召を人間に伝え、陽気ぐらしへと導く教祖の御立場は、察するに余りある。

 おふでさきには、月日親神の思召のまゝに、胸のほこりを掃除して、親子心一つにつながる明るい陽気な生活へと、一歩々々と人々を救け導かれた、なみ/\ならぬ教祖の御立場が拝される。こゝにひながたの親と仰ぐ教祖の親心が偲ばれる。

元の理:

 かくて、教祖は、つとめの完成を急込み、その根本の理を諭す上から、元初まりの理を、人々の心の成人に応じて、理解し易いように、順序よく述べられた。

 まず第三号には、

このよふのにんけんはじめもとの神

たれもしりたるものハあるまい 

三 15

どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ

それがたん/\さかんなるぞや 

三 16と、初めて人間世界の創造について誌され、

つゞく第四号には、

にんけんをはじめだしたるやしきなり

そのいんねんであまくたりたで 

四 55

このよふのはぢまりだしハとろのうみ

そのなかよりもどちよばかりや 

四 122

このどぢよなにの事やとをもている

これにんけんのたねであるそや 

四 123

このものを神がひきあけくてしもて

だん/\しゆごふにんけんとなし

四 124

それよりも神のしゆことゆうものわ

なみたいていな事でないぞや

四 125

このはなし一寸の事やとをもうなよ

せかい一れつたすけたいから

四 126と、一列人間を救けたい親心から、人間世界の創造について啓示げられ、第六号に於いて、つとめの理を納得させようとの思召から、元初まりの理に遡り、

いまゝてにない事ばかりゆいかけて

よろづたすけのつとめをしへる 

六 29

このつとめ十人にんぢうそのなかに

もとはぢまりのをやがいるなり 

六 30

いざなぎといざなみいとをひきよせて

にんけんはぢめしゆごをしゑた 

六 31

このもとハどろうみなかにうをとみと

それひきだしてふう/\はちめた

六 32と、十人のつとめ人衆の元の理を明かし、

このよふの元はじまりハとろのうみ

そのなかよりもどぢよばかりや 

六 33

そのうちにうをとみいとがまちりいる

よくみすませばにんけんのかを 

六 34

それをみてをもいついたハしんぢつの

月日の心ばかりなるそや

六 35

このものにどふくをよせてたん/\と

しゆこふをしゑた事であるなら 

六 36

このどふくくにさづちいと月よみと

これみのうちゑしこみたるなら 

六 37

くもよみとかしこねへとをふとのべ

たいしよく天とよせた事なら

六 38

それからハたしかせかいを初よと

神のそふだんしまりついたり

六 39

これからわ神のしゆごとゆうものハ

なみたいていな事でないそや

六 40

この世の元初まりは、泥海で、月日親神が居たばかりである。さて、親神が思うには、このような泥海の中に親神が居るだけでは、まことに味気ない。そこで、人間というものを拵えて、その陽気ぐらしをするのを見て親神も共に楽しもう、と思い立った。

 かくて、泥海中を見澄まし、先ずうをとみとを見出して、これを引き寄せ、一すじ心なるを見澄ました上、最初に産み下ろす子数の年限が経ったならば、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさして貰い受け、更に、次々と道具に使うものを見出して呼び寄せ、それ/\承知をさして貰い受け、喰べてその心味わいを試した上、これ等を雛型や道具として、人間を創造し、その理によりそれ/\に神名を授けた、と教えられた。

にんけんをはぢめかけたハうをとみと

これなわしろとたねにはじめて 

六 44

このものに月日たいない入こんで

たん/\しゆごをしゑこんだで 

六 45

このこかす九をく九まんに九せん人

九百九十に九人なるそや

六 46

この人を三か三よさにやどしこみ

三ねん三月とゝまりていた 

六 47

それよりもむまれたしたハ五分からや

五分五分としてせへぢんをした 

六 48

このものに一どをしゑたこのしゆごふ

をなぢたいない三どやどりた

六 49

うをにしやちを仕込み、月様の心入り込んで男雛型・種とし、みにかめを仕込み、日様の心入り込んで女雛型・苗代として、泥海中のどぢよを皆食べて、その心根を味わい、これをたねとして、元のぢばで三日三夜のうちに、九億九万九千九百九十九人の子数を宿し込み、母親は元のやしきに三年三月とゞまった上、七十五日かゝって子数を悉く産み下ろした。最初に生れたものは五分であったが、五分々々と成人して九十九年かゝって三寸となり、三度生れ更って、三寸五分と成り四寸と成った時、皆出直して了うた。

 その後は、親神の守護のまに/\、虫、鳥、畜類と八千八度の更生を経て、又、皆出直した後に、めざるが一匹残った。その胎内に、男五人女五人と十人宛宿り、五分から生れ、五分々々と成人して、八寸、一尺八寸、三尺となるうちに、泥海中に高低が出来かけ、次第にかたまり、五尺の人間と成った時に、天地海山悉く出来上り、空には日月が輝き、人は皆、食物を求めて泳ぎ廻った海中から、最寄りの陸に上がって棲む事となった。これまでの九億九万年が水中の住居である。

 陸に上がってから、六千年は智恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みを受けるうちに、旬刻限が到来して、元の理を明かす日が来た、とて、だめの教を創める所以を説かれ、

このよふをはぢめだしたるやしきなり

にんけんはじめもとのをやなり 

六 55

月日よりそれをみすましあまくだり

なにかよろづをしらしたいから 

六 56かく教えるをやの魂は、人間創造の母胎としてのいんねんある魂、この所は人間創造の元のやしきである。親神は、これを見澄ました上、旬刻限の到来を待って、初めて直々この世の表に現われて出た、と、世界たすけのだめの教を創める根本の理を明かされた。

 第十一号に入ると、元の理に基いて、この度世界たすけの道を創める所以を述べられ、

このよふのはじまりたしハやまとにて

やまべこふりのしよやしきなり

一一 69

そのうちになかやまうぢとゆうやしき

にんけんはじめどふくみへるで

一一 70

このどふぐいざなぎいゝといざなみと

くにさづちいと月よみとなり 

一一 71

月日よりそれをみすましあまくたり

なにかよろづをしこむもよふを

一一 72

元のやしきは中山氏と呼び、大和国山辺郡庄屋敷村にあり、つとめ人衆に任される理のある方が住んで居る。親神は、これを見澄まし天降り、よろづ委細を仕込まれるのである。

 つゞいて、第十二号には、

このやしきにんけんはじめどふぐハな

いざなぎいゝといざなみとなり

一二 142

月よみとくにさづちいとくもよみと

かしこねへとが一のとふぐや 

一二 143

それよりもをふとのべへとゆうのハな

これわりゆけの一のどふくや 

一二 144

つきなるハたいしよく天とゆうのハな

これわせかいのはさみなるぞや

一二 145と、元の道具衆の神名を挙げて、その理のつとめ人衆につらなるを教え、第十四号には、

せかいぢうどこの人でもをなぢ事

いつむばかりの心なれとも

一四 23

これからハ心しいかりいれかへて

よふきづくめの心なるよふ

一四 24

月日にわにんけんはじめかけたのわ

よふきゆさんがみたいゆへから

一四 25

陽気ぐらしこそ、人間世界創造の本旨なりと明かされ、第十六号に進んで、

このよふのにんけんはじめ元なるを

どこの人でもまだしろまいな 

一六 10

このたびハこのしんちつをせかへぢうへ

どふぞしいかりみなをしゑたい

一六 11

しかときけこのもとなるとゆうのハな

くにとこたちにをもたりさまや

一六 12

このをかたどろみづなかをみすまして

うをとみいとをそばいひきよせ

一六 13

特に月日親神の神名に、さまを加えて、月日と道具衆との理の一段と隔たることを示し、月日こそ、真実の親なりと教えられて居る点にも、親心ゆえの篤い配慮が窺われる。

かんろだい:

 さて、第十七号に入ると、その初めから、

いまゝでハなんのみちやらしれなんだ

けふからさきハみちがわかるで

一七1

このみちハどふゆう事にをもうかな

かんろふたいのいちじよの事 

一七2

このだいをどふゆう事にをもている

これハにほんの一のたからや 

一七3

これをばななんとをもふてみなのもの

このもとなるをたれしろまい 

一七4

このたびハこのもとなるをしんぢつに

とふぞせかいゑみなをしへたい

一七5ぢば:

このもとハいさなきいゝといざなみの

みのうちよりのほんまんなかや

一七6

そのとこでせかいぢううのにんけんわ

みなそのぢばではじめかけたで

一七7

そのぢばハせかい一れつとこまても

これハにほんのこきよなるぞや

一七8

にんけんをはじめかけたるしよこふに

かんろふたいをすゑてをくぞや

一七9

このたいがみなそろいさいしたならば

どんな事をがかなハんでなし 

一七 10

それまでにせかいぢううをとこまでも

むねのそふぢをせねばならんで

一七 11

このそふぢとこにへだてハないほとに

月日みハけているとをもゑよ 

一七 12

月日にハどんなところにいるものも

心しだいにみなうけとるで

一七 13親神は、ひたすらにかんろだいの完成を急込む。かんろだいのぢばは、この世元初まりに、人間を宿し込んだ所、世界人類の故郷である。この元のいんねんが有る故に、人間創造の証拠として、この所に、かんろだいを据えて置く。かんろだいが出来上りさえしたならば、どのような願もかなわぬという事はない。かんろだいを一日も早くと思えばこそ、先ず、人間の胸の掃除、心の入替えを促し、心定めを急込む。心さえ入替えたならば、直ぐと鮮やかな守護を現わす、と、つとめの目標たるかんろだいの理を明らかに教え、併せて親神の自由自在の守護の理を、誌されて居る。

いまゝでハこのよはしめたにんけんの

もとなるぢばわたれもしらんで

一七 34

このたびハこのしんちつをせかへちうゑ

どふぞしいかりをしゑたいから

一七 35

それゆへにかんろふたいをはじめたわ

ほんもとなるのところなるのや

一七 36

こんな事はじめかけるとゆうのもな

せかいぢううをたすけたいから

一七 37

今迄、誰一人として知った者も無い、人間世界創造の元のぢばを、確り教えたいゆえに、かんろだいを創められた。全くこれは、何でもどうでも、世界中を救けたいとの、一条の親心ゆえに外ならぬ。

ぢばに神名:

 更に、深い親心から、月日のやしろにそなわる天理王命の神名を、末代かわらぬ元なるぢばに授け、いつ/\迄も動ぎ無い信仰のめどを、明らかに教え示された。

 尚又、みちに譬え、ふしんに譬え、よふぼく、そふぢ、ほふけその他、数々の譬諭を用いて理を諭されて居る。それは、言うまでもなく、分り易いようにとの配慮からであるが、同時に、そこには、現実の人間生活を、一日も早く陽気ぐらしへ導きたい、との親心が窺われる。

 号を追うて、神・月日・をやと、親神の称名を替えられたのも、成人に応じて、月日親神の理を、知らず/\の間に会得せしめようとの親心からである。

 このように、月日のやしろとして、親神の思召を伝えられると共に、これを実地に踏み行うて、一列人間に、陽気ぐらしのひながたを示された。

難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。

 (明治二二・一一・七 刻限)

我々は、このひながたに、明るく暖かく涯知らぬたすけ一条の親心を拝する。この親心こそ月日の心である。

とのよふな事をするのもみな月日

しんぢつよりのたすけ一ぢよ

六 130

註一 右の年月は表紙に記された年月で、明治七年以降は陽暦と推定される。

 明治七年一月一日は陰暦では、六年十一月十三日にあたる。

 第十二号、第十三号及び第十七号の表紙には、年月の記載がない。

従って推定により、それ/\明治九年頃、明治十年頃、明治十五年頃と記す。

第九章 御苦労

やまさかやいばらぐろふもがけみちも

つるぎのなかもとふりぬけたら 

一 47

まだみへるひのなかもありふちなかも

それをこしたらほそいみちあり 

一 48

ほそみちをだん/\こせばをふみちや

これがたしかなほんみちである 

一 49

このはなしほかの事でわないほとに

神一ぢよでこれわが事 

一 50

明治十五年は、一旦頓挫したとはいえ、石普請の明るい感激につゞいて迎えられた。しかも、この年の初めから、教祖は、「合図立合い、/\。」と、屡々仰せられた。

十五年二月の御苦労:

 そばの者が、どういう事が見えて来るのか知ら、と心配して居ると、二月になって、教祖はじめ、まるゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎の人々に対して、奈良警察署から呼出しが来た。

その結果、教祖には二円五十銭、その他の人々には、一円二十五銭宛の科料の言渡しがあった。この時、警官は、本官がいか程やかましく取り締るとも、その方等は聞き入れない。その方等は根限り信仰致せ。その代りには、本官も根限り止める。根比べする。と言うた。

 これより先、飯降伊蔵の妻子は、前年の九月から既にお屋敷へ移り住んで居たが、三月二十六日(陰暦二月八日)、伊蔵自身も櫟本村を引き払うてお屋敷へ移り住み、こゝに、一家揃うてお屋敷へ伏せ込んだ。

かんろだいの石取払い:

 五月十二日(陰暦三月二十五日)、突然、大阪府警部奈良警察署長上村行業が、数名の警官を率いて出張して、二段迄出来て居たかんろだいの石を取り払うて、これを没収し、更に、教祖の衣類など十四点の物品をも、併せて没収した。

 差押物件目録(註一)一 石造甘露台一個

 但二層ニシテ其形六角

上石径二尺四寸下石径三尺二寸厚サ八寸一 唐縮緬綿入一枚一 唐金巾綿入一枚一 唐縮緬袷 一枚一 仝単物弐枚一 仝襦袢弐枚一 唐金巾単物一枚一 縮緬帯一枚一 寝台 一個一 夜具 一通

 但 金巾ノ更紗大小貮枚一 敷蒲団 但坐蒲団ヲ云 一枚一 赤腰巻弐個右ハ明治十四年十月中祈祷符呪ヲ為シ人ヲ眩惑セシ犯罪ノ用ニ供セシ物件ト思料候条差押者也

明治十五年五月十二日

 大和国山辺郡三島村ニ於テ

大坂府警部 上村行業印

立会人

 山辺郡三島村平民

中山マツヘ 印

立会人

 仝郡新泉村平民

山沢良治郎 印

こうして、親神の多年待ち望まれた、かんろだいの石普請は、頓挫に次いで取り払われた。

それをばななにもしらさるこ共にな

とりはらハれたこのさねんわな

一七 38

このざねんなにの事やとをもうかな

かんろふ大が一のざんねん

一七 58このように、親神の意図を悟り得ぬ者により、かんろだいの石を取り払われたのは、子供である一列人間の心の成人が、余りにも鈍く、その胸に、余りにもほこりが積もって居るからである。とて、

このさきハせかへぢううハとこまでも

高山にてもたにそこまでも

一七 61

これからハせかい一れつたん/\と

むねのそふちをするとをもへよ

一七 62これから先は、世界中悉く、地位身分の高低に拘らず、次々と、一列人間の胸の掃除をする、と、強く警告して、切に、人々の心の成人を促された。

 これと立て合うて、「いちれつすまして」の歌を教え、一列人間の心のふしんを急込まれた。

 二段迄出来たかんろだいの石が取り払われた後は、小石が積まれてあった。人々は、綺麗に洗い浄めた小石を持って来ては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍らしい守護を頂いた。

 この頃から、刻限々々のお話がふえ、おふでさきは、

これをはな一れつ心しやんたのむで

一七 75を以て、結ばれて居る。

 今後は、何人も皆、おふでさきに照らして、親神の心に従うよう、時旬を違えぬよう、よく/\思案し、確り心を定めて、勇んで陽気ぐらしをするように、との親心を述べて、懇ろに将来の覚悟と心得とを諭されると共に、刻限々々のお話を以て、お仕込み下されるようになった。

 こうして、教祖は、たすけづとめの完成を急込まれた。官憲の取締りは、先ず、つとめに集中し、かんろだいを取り払うて後は、教祖の御身に集中した。

 この年六月十八日(陰暦五月三日)、教祖は、まつゑの姉おさく身上の障りに付、河内国教興寺村の松村栄治郎宅へ赴かれ、三日間滞在なされた。

 前年の九月二十三日(陰暦八月一日)中山家へ入籍した真之亮は、この年九月二十二日(陰暦八月十一日)付、家督を相続した。

毎日のつとめ:

 かんろだいの石取払い以後、官憲の圧迫は尚も強化される一方であったが、それには少しの頓着もなく、教祖は、依然としてたゞ一条に、たすけづとめを急込まれ、十月十二日から十月二十六日まで(陰暦九月一日から仝十五日まで)、教祖自ら北の上段の間にお出ましの上、毎日々々つとめが行われた。

 この頃、大阪府泉北郡で、信仰の浅い信者達の間に、我孫子事件が起って、警察沙汰となった。

 当時お屋敷では、人々が大そう心配して、親神の思召を伺うと、

「さあ海越え山越え/\/\、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで。」との事であった。これを聞いて、一同は辛うじて愁眉を開いた。

 更に、陰暦九月九日、節句の夜に、大阪で泉田藤吉が、熱心のあまり警官を相手に激論した。この夜同時刻に、

「さあ/\屋敷の中/\。むさくるしいてならん/\。すっきり神が取払ふで/\、さあ十分六だい何にも言ふ事ない、十分八方広がる程に。

さあこの所より下へも下りぬもの、何時何処へ神がつれて出るや知れんで。」と、仰せられた。

 人々は、このように毎日おつとめをして居ても、よくもまあ、引張りに来ぬ事や、と、思うて居たが、この両事件が痛く警察を刺激して、大阪府から奈良警察署へ指令が来た。

 お屋敷では、十月二十六日(陰暦九月十五日)のおつとめの際、ふとした機みで、つとめ人衆の一人前川半三郎が、辻とめぎくの琴の上に躓いて倒れ、山本利三郎は、お供えの餅米を間違えて飯に炊いた。人々は、何となく、変った事が起らねばよいがなあ、と思って居た処、翌二十七日(陰暦九月十六日)、奈良警察署から、警官が、村の足達秀治郎を同行して取調べに来た。

 この時、曼陀羅をはじめ、祭祀用具一切から、神前にあった提灯や、座敷にかけてあった額迄取り払うて、村総代の所へ運ばせた。居合わせた人々は、梶本、梅谷、喜多、桝井等である。

十五年十月の御苦労:

 翌々日、即ち、十月二十九日(陰暦九月十八日)、教祖初め、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、山本利三郎、森田清蔵を、奈良警察署へ呼び出した。その日未明、教祖お一人は、大阪の水熊の人力車に乗って、他の五名の人々は、間道を歩いて奈良へ行かれた。

 さて、警察署では、教祖初め一同の人々は、拘留の申渡しを受けられた。お迎えに行つた真之亮初め多数の人々が、警察署の門前で待って居ると、やがて、御一行は巡査に付き添われて北の方へ行かれるので、随いて行くと、そのまゝ監獄署の門を入られた。

 十七歳の真之亮は、高井を連れて、毎朝一番鶏の声と共に、お屋敷を出て差入れに行った。所用万端を済ませて奈良を出発する頃は、いつも夜になって居た。

 梅谷、梶本等も差入れに行った。前川半三郎も行った。沢田権治郎、中山まさも行った。勿論、皆徒歩である。又、一般信者の差入れは、毎日引切りなく続いた。

 お帰りの前日には、空風呂へ薬袋を抛り込むという悪企みをされたが、早速気付いて、事なく済んだ。

 この時は、明治八年以来の、長い御苦労であったが、この間、教祖は、監獄署のものは水一滴も口になさらず、しかも元気で、十一月九日(陰暦九月二十九日)、お屋敷へ帰られた。

 教祖お帰りの時は、お迎えの人力車は百五、六十台、人は千数百人。

よし善で休憩の上、人力車を連ね、大勢の人々に迎えられて、お帰りになった。この日、奈良丹波市近辺に、空いて居る車は一台も無かったという。

 教祖の御一行は、前日に召喚されて、帯解の分署で一日留置の上、奈良監獄署へ送られる飯降伊蔵と、奈良の文珠の前で行違うたが、この時、伊蔵は、大声に、行ってくるで。と言った。その声に応じて、娘のよしゑは、家の事は心配いらぬさかえ、ゆっくり行てきなはれ。と言うた処、伊蔵は、大いに安心して悠々と引かれて行った。この拘引の理由は、弟子音吉の寄留届を怠ったから、と、言うのであったが、十八日迄十日間の拘留を申し渡された。

 教祖が帰宅されて後、つゞいて、乙木村の山中忠三郎も呼び出され、同じく十日間の拘留に処せられた。

まつゑ出直:

 この少し前から身上勝れなかったまつゑは、教祖お帰りの直後、十一月十日(陰暦九月三十日)、三十二歳を一期として出直した。

 又、この年四月一日以降、飯降おさとの名義になって居た蒸風呂は、悪企みされたのを機に、即日廃業した。同じく宿屋業も、十一月十四日(陰暦十月四日)頃廃業した。

 教祖は、廃業については、「親神が、むさくろしいて/\ならんから取り払わした。」と、仰せられ、又、拘留については、「連れに来るのも親神なら、呼びに来るのも親神や。ふしから大きいなるのやで。」と、仰せられ、更に、「何も、心配は要らんで。この屋敷は親神の仰せ通りにすればよいのや。」と、諭して、徒らに眼前の出来事に驚く事なく、刻々現われて来る事の中に親神の思召を悟り、ふしから出て来る芽を楽しみに、時旬の理に添うて勇んで働け、と教えられた。

 取払いと同時に、今迄ほこりを重ねて来た人々は皆、身上にお障りを頂いた。それを見て、人々は、成程、これが合図立合いと、かね/\仰せられて居た事であるなあ、屋敷の掃除とはこの事か。と、感じ入った。

 地福寺との間も、この年十二月十四日付、本日限り引払致候、との一札を受け取って、綺麗さっぱりと解決した。(註二)

当時、お屋敷に常住して居たのは、教祖、真之亮、たまへ、ひさで、他に詰めて居た人々は、仲田、山本、高井、宮森、桝井、辻、山沢、飯降、梶本、梅谷、喜多等であった。

 明治十五年の御苦労の時、監獄から支給の食物は、何一つとして召し上らず、断食一週間以上に及んだ時、獄吏が心配して、婆さん、一寸手を出して御覧。と言った。教祖は、言うがまゝに手を出し、更に、言うがまゝに先方の手を握られた。

 獄吏が、それだけしか力がないのか。と言うと、教祖はにっこり笑うて、手に力をお入れになった。手が痛む程の強さであったので、獄吏は驚いて、あゝ、もうよし/\。と、恐れ入った。

 真之亮の手記に、

○此時分、多キトキハ夜三度昼三度位巡査の出張あり。而して、親族の者たりとも宿泊さす事ならぬ、と申渡し、若し夜分出張ありしトキ、親族の者泊まりて居りても、八ケ間敷説諭を加へ、昼出張ありし節、参詣の人あれバ、直ちニ警察へ連れ帰り、説諭を加へたり。然るニより、入口/\ニハ、参詣人御断り、の張札をなしたるも、信徒の人参詣し、張札を破るもあり。参詣人来らざる日ハ一日もなし、巡査の来らざる日もなし。

 ○教祖様休息所ハ、十五年十一月より普請ニ掛かれり。

 ○真之亮ハ、十五、十六、十七ノ三ケ年位、着物ヲ脱ガズ長椅子ニモタレテウツ/\ト眠ルノミ。夜トナク昼トナク取調ベニ来ル巡査ヲ、家ノ間毎/\屋敷ノ角々迄案内スルカラデアル。甚ダシキハ、机ノ引出し箪笥戸棚迄取調ベナシタリ。巡査一人ニテ来ル事稀ナリ。中山家ニ常住スルモノハ、教祖様、真之亮、玉恵、久ノミナリ。

と、真之亮は、当時、お屋敷に在住して居た家族中、たゞ一人の男子で、同時に戸主でもあったから、十七歳から十九歳に亙る若い年輩ながら、一切の責任者として、その巡査達と応待したのである。

 明治十五年には、信仰し始めた人々の数も夥しかった。中にも三月には、大和国北檜垣村の鴻田忠三郎が、夏には、大阪の小松駒吉が、それぞれ信仰し始めた。

 このように、この年は反対も激しかったが、それにも拘らず、親神の思召は、ずん/\と勢よく伸び弘まった。

 明治十五年三月改めの講社名簿によると、

神清組(教興寺村)、天神組(恩知村)、神恵組(法善寺村)、神楽組(老原村)、敬神組(刑部村)、清心組(国分村)、神徳組(飛鳥村)、榊組(太田村)、一心組(西浦村)、永神組(梅谷村)、平真組(平野郷)、真実組(大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、檜垣村)、天恵組(大阪)、真明組(大阪)、明心組(大阪)、信心組(大阪)、真実組(堺)、心勇組(大和倉橋村出屋舗方講中)、誠心組(同国佐保庄村講中)、信心組(同国忍坂村講中)、神恵組(堺桜之町講中)

以上、大和国五、河内国十、大阪四、堺二の講社が結ばれて居り、その他この名簿には見えないが、この以前からあったものに、天元、積善、天徳、栄続、朝日、神世、明誠等がある。当時、講元周旋の人々は、山城、伊賀、伊勢、摂津、播磨、近江の国々にもあり、信者の分布は更に遠く、遠江、東京、四国辺りにまで及んだ。

 反対や取締りが激しくなるに連れ、人々の信仰はいよ/\白熱し、教勢は一段と盛んになった。そして、これ程御苦労下さる教祖に、何とかして、少しでもゆっくりお休み頂きたい、との真心が凝って、御休息所の普請となった。

明治十六年:

 明治十六年になると、警察は、人を寄せてはならぬ。と、一層厳しい圧迫を加えた。中でも、三月(陰暦二月)、六月(陰暦四月)、八月(陰暦七月)等のふしは、いずれも忘れ難い出来事である。

十六年三月のふし:

 同年三月二十四日(陰暦二月十六日)、突然、一人の巡査が巡回にやって来た。その時偶々、鴻田忠三郎が、入口の間でおふでさきを写して居り、他に泉田藤吉外数名の信者も居合わせた。

 巡査が言った。貴様達、何故来て居るか。と。参詣の人々は、私共は親神様のお蔭で守護を頂いた者共で、お礼に参詣して参りました処、只今参詣はならぬと承わり、戻ろうと致して居ります。と答えた。

 次に、巡査が鴻田に対して、貴様は何して居る。と問うた。鴻田は、私はこの家と懇意の者で、かね/\老母の書かれたものがあると聞いて居りました。農事通信委員でもありますから、その中に、良い事が書いてあらば、その筋へ上申しようと、借りて写して居ります。と答えた。

実際、忠三郎は、既に三月十五日付を以て大蔵省宛に建言書を提出して居たのである。(註三)すると巡査は、戸主を呼べ。と言った。丁度、真之亮は奈良裁判所へ出掛けて留守であったので、その旨を答えると、戸主が帰ったら、この本と手続書とを持参して警察へ出頭せよ。と申せ。

と言うて引き揚げて行った。帰ってこの事を聞いた真之亮は、当惑した。

ここでおふでさきを持って行って、没収でもされゝば、それ迄である。

と気付いたので、おまさ等にも話して、どんな事があっても、この書きものを守り抜こうと決心した。そこで、その本はおまさ、おさとの二人が焼いたという事にして、手続書だけを持って、出頭した。

 すると、蒔村署長は、鴻田の写して居た本を持参したか。と、問うたので、その本は、巡回の巡査が、そのようなものは焼いて了え、と申し付けられましたから、私の不在中、留守番して居りました、伯母おまさと、飯降おさとの両人で焼いて了いました。と答えると、署長の側に居た清水巡査が立ち上り、署長、家宅捜索に参りましようか。と言った。

真之亮は冷やっとした。けれども、署長は、それに及ばぬ。と。つゞいて、署長の問うには、お前方に来て居た人は、何処の者で、何と言う人か。と。これに対して、私は不在でしたので存じません。と答えると、自分の家に来て居る人々を知らぬと申すは、不都合ではないか。とて、真之亮を、その夜留置した。そして、真之亮、おまさ、おさとは皆、それ/\手続書をとられた。

 手続書一、昨廿四日午前十時頃当分署ヨリ御巡廻ニ相成候砌御見廻被下候際私宅ヱ御立寄りニ相成参詣人有之趣ニ付手続書可差出旨御口達ニ依り有体奉申上候此義兼テ御差留有之ニ付断申居且又参詣之義ハ断ルノ書附等モ表口ニ張置有之候ニ付参詣人ハ決テ無御座候程て御座候然ルニ私儀ハ本月廿三日ヨリ奈良裁判所エ出頭仕居候留主中ニテ参詣人有無存シ不申候得共帰宅之処手続書差出可旨御達ノ趣承家内ヘ尋問候処仝国式上郡檜垣村鴻田忠三郎ナル者天輪王命由来書披見致度等被申ルヽニ付見セ居候其節何国ノ者歟五六名程在来御座候得共見知ヌ者ニ有之候其際巡廻之御方ヨリ右天輪王ニ属スル書類ハ焼可捨様御達ニ依り私仝居罷有候飯降伊蔵妻さとナル者右忠三郎披見ノ書類即時焼捨申候義ニ御座候手続書ヲ以此段有体奉上申候也

明治十六年三月廿五日

 山辺郡三嶋村

中山新治郎丹波市分署御中

御休息所棟上げ:

 こうした厳しい取締りの中にも、同年五月、御休息所の棟上げが行われた。

十六年六月のふし:

 同年六月一日、陰暦四月二十六日、参詣人取締りのため警官の出張を頼んだ。すると、三名の巡査が出張して来たが、参詣人が多くて引も切らぬので、午後になって、更に、私服が二名やって来た。午後三時頃、この五名が打連れて布留の魚磯という料理屋へ行き、一杯機嫌で再びやって来て、直ちに神前に到り、三方の上に供えてあった小餅に、一銭銅貨が一枚混って居たのを口実に、真之亮を呼び出した。その時の状況を誌した真之亮の手記には、 巡査の云へるニハ此餅の中ニ一銭銅貨の入れあるハ、定めし本官等が他所巡回中ニ参拝させたのであろ(巡査の出行きし頃ハ参詣人も少なかりしなり)。真之亮答えるニハ「アナタ」方御出ましニなりし時分ハ参詣の人も極小数でありましたから、私ハ門ニ附いて居り升て一人も入れません、と申したり。(最も一人も入れざりしなり)。巡査ハ怒りて、小餅を壁土の中へ投げ込み、神の社及び祖先の霊璽迄、火鉢ニて焼き、而して己れ等の失策ニならざる様ニ真之亮ニ手続書を書かせて持ち帰れり。而して其手続書ハ巡査が文案して書かせり。尤も文案ハ口上ニて申せり。と、誌して居る。簡明な叙述の中に、何とも言えない当時の様子がまざまざと甦って来る。

 手続書

五番地

 中山新治郎右私儀明治十六年五月卅一日届書ヲ以テ今六月一日即チ旧四月廿六日ハ天輪王祭日ニ相当成ルニ付遠近諸国ノ人民御政体ノ御趣意ヲ弁エズ参詣スルモノ数多ナルニ付私戸主付右参詣人制スルト雖モ到底私一人ノ力難及候ニ付昨三十一日該御分署へ御出張ノ上右参詣愚昧ノ者共エ御説諭成被下候様願出本日午前第九時ヨリ御出張相成参詣人ハ勿論家宅内不審ノ場所ト巡視相成私先祖亡霊ヲ祭祀致候処御出張ノ際取除グベキ様御説諭ニ預り其後午後ニ至り再ビ御出張ニ相成右場所矢張従前儘差置キ候付御説諭ノ趣意相不守候付断然右祭祀シタル物品没収相成候段奉恐入候以後右物品ニ付不服申間敷為メ私御焼却ノ際原場ヘ立会ノ上証認仕候尚以後御巡視ノ際家宅ニ於而不審ノ件々有之候際ハ即時御没収被命候共決し而不伏等申間敷候依而之ニ右手続書如斯ニ御座候也

明治十六年六月一日

 山辺郡三嶋村

中山新治郎

丹波市御分署御中

雨乞づとめ:

 明治十六年は、年の初めから厳しい取締りがつゞき、昼も夜も巡査の回って来ない日とては無かったが、この夏は、近畿一帯に亙っての大旱魃であり、三島村も長い間の旱魃つゞきで、田圃にはひゞが入り、稲は葉も茎も赤くなって、今にも枯れん有様と成った。村人達は、村の鎮守にお籠りして、三夜に亙って雨乞をしたけれども、一向に験めが見えない。そこで、村の人々は、お屋敷へやって来て、お籠りをさして下され。

と頼んだ。年来の厳しい取締りで、参詣人は一人も寄せつけてはならぬ。

おつとめをしてはならぬ。おつとめをしたら、教祖を連れて行く。と言われて居た頃であるから、お屋敷では、当局の取締りの厳しい旨を述べ、言葉を尽して断った。しかし、村人とても、万策つきた場合であったから、お籠りさして貰う訳に行かぬなら、雨乞づとめをして下され。氏神の境内にておつとめして下され。と、一昼夜退かなかった。その上、警察から取調べに来たら、私達が頼んだのであると言うて、決して御迷惑はかけません。と、繰り返し/\懇願した。そこで真之亮も気の毒に思い、教祖に伺うと、お言葉があって、「雨降るも神、降らぬのも神、皆、神の自由である。心次第、雨を授けるで。さあ掛れ/\。」と、仰せられた。そこで、村総代の石西計治と相談して、先ず、村の氏神の境内に集まる事とし、一同準備をとゝのえ、八月十五日(陰暦七月十三日)の午後四時頃、お屋敷を立ち出で、氏神の境内へと向った。この日は、朝から晴天で、空には一点の雲もなかった。

 真之亮と飯降伊蔵の二人はお屋敷に留まり、かんろだいの所で一心にお願した。当日、雨乞づとめに参加の人々は、辻忠作、仲田儀三郎、同かじ、桝井伊三郎、高井直吉、山本利三郎、岡田与之助、沢田権治郎、博多藤平、村田かじ、中山重吉、西浦弥平、飯降よしゑ、辻とめぎく、音吉等である。

 男女とも、教祖のお召下ろしの赤衣を、差渡し三寸の大きさに切り、十二弁の縫取りした紋を、背中に縫いつけて居た。

 かぐらの、獅子面二、面八、鳴物九を、それ/\この人数に割りつけた上、氏神の境内に集まり、それから三島領の南の方を廻って、先ず、巽(東南)の角、当時牛はぎ場と言うて居た所で、雨乞づとめをした。

あしきをはらうて どうぞ雨をしっかりたのむ 天理王命

なむ天理王命 なむ天理王命繰り返し/\、心を合わせ精魂を打込んで勤めた。

 次に、坤(西南)の角、即ち、村の西端れ、布留街道の北側で勤めた。

この頃、東の空にポツンと一点の黒雲が現われた。つゞいて乾(西北)の角で、つとめに取り掛った時に、墨をすったような黒雲が東山の上から忽ちにして空一面に広がり、篠つくような大雨が雷鳴さえもまじえて降り出し、激しい大夕立となって来た。つとめに出た人々や村人達の嬉しさは、譬えるにものもない。面をも貫くかと思われる豪雨の中を終りまで勤め、更に、艮(東北)の角で、びしよ濡れのつとめ着のまゝ、袂に溜る雨水を打捨て/\勤めた。

 つとめを了ってから、一同が氏神の境内で休んで居ると、村人達も大そう喜び、かんろだいの場所でお礼さして貰いたい、と言って来た。そこで、かんろだいの所へ帰って来て、皆揃うてお礼の参拝をして居ると、丹波市分署から数名の巡査が駈けつけて来た。そして、何をして居るか。

と言うから、村の頼みで雨乞致しました。と答えた。それなら村役人を呼んで来い。との事で、来るには来たが、巡査が、雨乞を頼んだか何うか。と尋問すると、その場の空気に怖れをなして、知りません、頼みません。と、言い遁れた。そこで雨乞づとめに出た一同は、ズブ濡れのまま拘引された。ちようど、三島の川筋は番破れとなり、川上の滝本村の方で水喧嘩が出来たので、二人の巡査はそちらへ駈けつけ、あとに残った一人の巡査に連れられて、一同腰縄付き、両端の二人は縄を結びつけ、余の者は帯に縄を通して、布留街道を西へ丹波市分署へと向った。

 この時、誰しも不思議に思ったのは、隣村の豊田、守目堂、川原城など、ごく近い村々が、ホンの少しバラ/\とした位で、雨らしい雨は殆んど降らなかった事である。

 分署では、だん/\と取調べられたが、かぐらの理を説くには、教理を説かねばならず、教理を説くには、どうしても、教祖に教えて頂いたという事が出て来る。又、雨乞づとめに、よしゑ、とめぎくの二人が、赤い金巾に模様のある着物を着て居たから、人の目について居たため、警察は、教祖も雨乞づとめに出られたと思ったらしい。

 一方、お屋敷に残った人々も、何となく不安に思って居ると、その日の午後九時頃、突然一人の巡査がやって来て、教祖を拘引しようとした。

その時、おまさが側に居たので、何故、老母をお連れになりますか。と、勢激しく聞いたはずみに、思わず知らず、手が巡査の洋袴に触れた。すると巡査は、何故とは不都合千万である。老母に尋問する事があるから、連れに来たのだ。しかるに、その方は、何故、巡査をたゝいた。老母と同道で来い。と言うて、とも/\連行した。そして、だん/\と教祖に尋問した処、お言葉があって、「雨降るのも神、降らぬのも神の自由。」と、仰せられた。警官は、雨乞づとめをして、近村へ降る雨まで皆、三島村へ降らせて了ったという理由により、水利妨害、又、街道傍でつとめをしたから道路妨害、という名目で、教祖には二円四十銭の科料、辻、仲田、高井等は、六十二銭五厘、その他の人々は五十銭の科料、他におまさには、巡査をたゝいたとて一円の科料を申し渡した。人々は皆、深夜午前二時過ぎに釈放されたが、教祖だけは徹夜留置となり、午前十時頃迄御苦労下された。(註四)

この事があって一週間ほど後、即ち八月二十一日(陰暦七月十九日)、河内国刑部村から頼まれて、松田宅で雨乞をしたが、その時に行った人は、高井、桝井、辻、宮森、博多等であった。この時も、巡査が来たので、皆、老原村へ逃げたが、その時、高井は紙入を落した。それを巡査が拾うて調べて見ると、丹波市分署で科料を払った受取りがあったので、高井だけが呼び出され、一円五十銭の科料に処せられた。

 同じ頃、山本利三郎は、河内国の法善寺村で、講元、周旋等を集めて、雨乞をしたが、この方は無事であった。

 こうして、十六年の夏は、雨乞で大そう賑わった。取締りも厳しかったが、拘引されても説諭されても科料を取られても、しかも尚、人々の信仰は一層勇み立ち、一段と元気付く一方であった。

十六年十月のふし:

 同年十月十六日(陰暦九月十六日)には、巡査が二名出張して来て、尋問の筋あり。と、称して、教祖を引致し、教祖のお側にあった屏風と、戸棚の中にあった毛布とを、犯罪の用に供したものである。と、言うて、封印して戸長の石西計治方へ運ばせた。

御休息所竣功:

 この秋に、普請中であった御休息所は、内造りが完成した。三間に四間の建物で、四畳八畳の二間である。

 教祖は、十一月二十五日、陰暦十月二十六日の夜、親神のお指図のまに/\、刻限の来るのを待って、中南の門屋から新しい御休息所へ移られた。

 この日の夕方、教祖は夕飯を召し上ってから、着物をお召替えになり、じっと刻限の来るのをお待ちになった。そこへ取次が、用意が整いました。と、申上げに来る。庭にはもう、お迎えの人々が、提灯に灯を入れてズラッと並んで居る。しかし、教祖は、「そうかや、用意が出来たかや。刻限が来たら、移りましような。」と、仰しやっただけで、尚もじっと台の上にお坐りになって居る。

 用意は出来た。人々は今か今かと待って居る。しかし、教祖は、ひたすらに刻限の来るのを待って居られる。人間心からすれば、直ぐにもお移り頂けば早く済むのに、とも考えられるが、親神の思召の前には、いかなる事にも振り向こうともなさらぬ教祖。その教祖の様子に、月日のやしろの面影があり/\と偲ばれる。

 こうして何時間かゞ経った。教祖が、「さあ、刻限が来た、移りましよう。たまさんおいで。」と、孫のたまへに仰しやったのは、真夜中頃であった。お渡りになる両側には、信者の人々が、真明組、明心組、その他それ/\講名入りの提灯をつけて、庭一杯になって待ち受けて居る。

 その中を、両側の提灯の光に照らされて、当年八十六歳の教祖が、七歳の嫡孫たまへの手を引かれ、そのたまへのもう片方の手は、外孫である梶本ひさが引いて、静々と進んで行かれると、居並ぶ人垣の間からパチ/\と拍手の音が起り、教祖が歩みを進められるにつれて、その音は次々と響いた。後年、たまへは、あの時には、訳は分らずながら、おばあ様に手をつながれてお供した。今考えると短い距離やが、あの晩は相当長かったように思うた。と、述懐した。

 やがて、御休息所に着かれた教祖は、静かに上段の間に坐られた。そして、真之亮とたまへに、「こゝへおいで、こゝへお坐り。」と、仰せられて、自分の左右におすえになった。

 それから御挨拶が始まった。一々襖を開けたり閉めたりして、只今は、真明組で御座います。只今は、明心組で御座います。と、次々と取次から申上げて、幾回となく御挨拶が続き、その夜はとう/\徹夜であった。

人々の真心のこもった御休息所、しかも刻限を待って初めてそこへ入られた教祖にお目に掛って、人々の心は、霜の置く寒夜にも拘らず、明るい感激に燃え立った。

 この明治十六年には、道が、遠い国々に迄伸びて、多くの人々が随いて来た中に、二月には遠江の諸井国三郎が、五月には、神戸の清水与之助が、それ/\信仰し始めた。又、同じくこの年、大和国倉橋村の上村吉三郎が、大阪からは寺田半兵衞が、それ/\信仰し始めた。

明治十七年:

 年が明けると明治十七年。教祖は八十七歳に成られる。

十七年三月の御苦労:

 年の初めから相変らず厳しい取締りの日々が続いたが、三月二十三日、陰暦二月二十六日の夜十二時頃、突然二名の巡査が、辻忠作を伴うてお屋敷へやって来た。

 それは、同夜お屋敷へお詣りした忠作が、豊田村へ戻ろうとして、鎮守の杜の北側の道を東へ急いで居た時に、この二名の巡査に行き会い、咎められたので、用事あって中山家へ参り居まして、たゞ今戻る処で御座ります。と答えたため、同人を同道して取調べに来たのである。

 その時ちようど、教祖のお居間の次の間に、鴻田忠三郎が居り、其処に御供もあり、又、鴻田が古記と唱えて書いて居たものもあったので、巡査は帯剱を抜いて、この刀の錆になれ。と言うて脅かした。その上、翌日になると、御供と書きものを証拠として、教祖と鴻田を分署へ拘引しようとて、やって来た。

 教祖は、拘引に来た巡査に向い、「私、何ぞ悪い事したのでありますか。」と、仰せられた。巡査は、お前は何も知らぬが、側について居る者が悪いから、お前も連れて行くのである。と言った。教祖は、「左様ですか。それでは御飯をたべて参ります。ひさやこのお方にも御飯をお上げ。」と、言い付けなされ、御飯を召し上り着物を着替え、にこ/\として巡査に伴われて出掛けられた。

 分署では、先に見付けた御供と書きものとを証拠として、教祖には十二日間、鴻田には十日間の拘留を申し渡し、奈良監獄署へ護送した。

 こうして、三月二十四日から四月五日まで(陰暦二月二十七日から三月十日まで)、監獄署で御苦労下されたのであるが、その間、差入れに又留守居に、真之亮初め取次の人々も、一般の信者の人々も、心を千々に碎き有らん限りの真心を尽した。

 お帰りの時には、信者の人々が多数、お迎えに押し寄せたので、監獄署の門前は一面の人で、午前十時、教祖が門から出て来られると、信者達はパチ/\と拍手を打って拝んだ。監獄署を出られた教祖は、定宿のよし善で入浴、昼飯を済まされ、お迎えの信者達にもお目通りを許され、酒飯を下されて後、村田長平の挽く人力車に乗って、お屋敷へ帰られたが、同じく人力車でお供する人々の車が数百台もつゞいた。沿道は到る所人の山で、就中、猿沢池の付近では、お迎えの人々が一斉に拍手を打って拝んだ。取締りの巡査が抜剱して、人を以て神とするは警察の許さぬ処である。と、制止して廻ったが、向うへ行って了うと、命の無い処を救けて貰たら、拝まんと居られるかい。たとい、監獄署へ入れられても構わんから拝むのや。と呟やきながら、尚も拍手を打って拝む有様で、少しも止める事は出来なかった。こうして、恙なくお屋敷へ着かれたのは、午後の二時であった。

毎月二十六日の御苦労:

 つゞく四、五、六の三ケ月間は、特別の理由もないのに、おつとめ日の前後に当る陰暦二十五、六、七の三日間は、教祖を警察へお連れして留置した上、一応の取調べもせずに帰宅させた。日に月に増す参詣人、伸び弘まる一方の親神の思召に対して、警察が神経を尖らせた当時の状況が、あり/\と窺われる。

十七年八月の御苦労:

 八月十八日(陰暦六月二十八日)には、巡査が巡回に来て、机の抽出しにお守りが一つあったのを発見し、これを理由として、教祖を丹波市分署へ拘引し、十二日間の拘留に処し、奈良監獄署へ送った。御入監は午後三時頃であった。こうして、教祖は八十七歳の高齢の身を以て、八月十八日から三十日まで(陰暦六月二十八日から七月十日まで)、暑さ酷しい折柄、狭苦しく穢い監獄署で御苦労下された。度々の御苦労であったが、お帰りの時には、「ふしから芽が出る。」とのお言葉通り、その度毎に、お迎えの人は尚も増すばかりであった。

 この頃、教祖のお帰りの日には、お迎えの車は数百台で、全国からお迎えの人数は、万を以て数える程であったという。しかし、お屋敷の門迄来ると、警官の取締りが厳重で、中へは一歩も入らせない。門前までお供して、心ならずも、そこから教祖の後姿を見送り、かんろだいのぢばを遙拝して、或は近在の村々へ或は遠方の国々へと、無量の感慨を懐いて引き揚げた。

 この年二月には、長州の出身で当時神戸在住の増野正兵衞が、信仰し始めた。

 当時、人々の胸中には、教会が公認されて居ないばっかりに、高齢の教祖に御苦労をお掛けする事になる。とりわけ、こゝ両三年来西も東も分らない道の子供達の心ない仕業が、悉く皆、教祖に御迷惑をお掛けする結果になって居る事を思えば、このまゝでは何としても申訳がない。

どうしても教会設置の手続きをしたい、との堅い決心が湧き起った。

 四月十四日には、お屋敷から山本利三郎、仲田儀三郎の二人が教興寺村へ行って、この事を相談した。同じく十八日には、大阪の西田佐兵衞宅に、真之亮、山本、仲田、松村、梅谷、それに京都の明誠組の人々をも加えて協議した。が、議論はなか/\まとまらず、一度お屋敷へ帰ってお伺いの上、よく相談もしてから、方針を決めようという事になった。

当時京都では明誠組が、心学道話を用いて迫害を避けて居たのに倣うて、明治十七年五月九日(陰暦四月十四日)付、梅谷を社長として心学道話講究所天輪王社の名義で出願した処、五月十七日(陰暦四月二十二日)付「書面願之趣指令スベキ限ニ無之依テ却下候事」但し、願文の次第は差支えなし。との回答であった。それで大阪の順慶町に、天輪王社の標札を出した。

 この頃、北炭屋町では天恵組一番、二番の信者が中心となって、心学道話講究所が作られ、その代表者は、竹内未譽至、森田清蔵の二人であった。九月には、竹内が、更にこれを大きくして大日本天輪教会を設立しようと計画し、先ず、天恵組、真心組、その他大阪の講元に呼び掛け、つゞいて、兵庫、遠江、京都、四国に迄も呼び掛けようとした。

 こうして、道の伸びると共に迫害は益々激しくなり、迫害の激しくなると共に、人々は、教会の公認を得ようと焦慮り、遂に、信者達の定宿にして居た村田長平方に、教会創立事務所の看板をかけるまでに到った。

明治十八年:

 明治十八年になると、教祖は八十八歳。この年、北の上段の間の南につゞく二間通しの座敷で、米寿を祝われたが、その席上、教祖は、当年二十歳の真之亮と前川菊太郎の二人を、同時に背負うて、座敷を三周なされた。並み居る人々は、驚きの眼を見はった。

 さて、竹内等の計画は、次第に全国的な教会設置運動となり、明治十八年三月七日(陰暦正月二十一日)には、教会創立事務所で、真之亮、藤村成勝、清水与之助、泉田藤吉、竹内未譽至、森田清蔵、山本利三郎、北田嘉一郎、井筒梅治郎等が集まって会議を開いた。その席上、藤村等は、会長幹事の選出に投票を用いる事の可否、同じく月給制度を採用する事の可否等を提案した。

 議論沸騰して容易に決せず、剩えこの席上、井筒は激しい腹痛を起して倒れて了った。そこで、教祖に伺うた処、「さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで。」と、仰せられた。この一言で、皆はハッと目が覚めた。竹内や藤村などと相談して居たのでは、とても思召に添い難いと気付いたのである。

 が、本格的な教会設置運動の機運はこの頃から漸く動き始め、この年三月、四月に亙り、大神教会の添書を得て、神道管長宛に、真之亮以下十名の人々の教導職補命の手続きをすると共に、四月と七月の二度、大阪府へ願い出た。

 最初は、四月二十九日(陰暦三月十五日)付で、天理教会結収御願を、大阪府知事宛提出した。十二下りのお歌一冊、おふでさき第四号及び第十号、この世元初まりの話一冊、合わせて四冊の教義書を添付しての出願であった。

 教導職補命の件は、五月二十二日(陰暦四月八日)付、真之亮の補命が発令された。つゞいて、同二十三日(陰暦四月九日)付、神道本局直轄の六等教会設置が許可され、更に、その他の人々の補命の指令も到着し、六月二日(陰暦四月十九日)付、受書を提出した。

 この年、四国では、土佐卯之助等が、修成派に伝手を求めて補命の指令を得た。世間の圧迫干渉を緩和しようとの苦衷からである。

 しかし、天理教会結収御願に対する地方庁の認可は容易に下らず、大阪府知事からは、六月十八日(陰暦五月六日)付、願の趣聞届け難し。

と、却下された。

十八年六月のふし:

 六月二十日(陰暦五月八日)には、岩室村の金蔵寺の住職村島憲海、村田理等が、お屋敷の門戸を蹴破って乱入した。余りの事に、真之亮は告訴しようとしたが、丹波市村の駒村顯夫が仲に入って謝って来たので、ゆるした。

 翌七月三日(陰暦五月二十一日)には再度の出願をした。神道天理教会設立御願を大阪府知事宛に提出したのである。この時には、男爵今園国映を担任としての出願であった。

 十月八日(陰暦九月一日)には、教会創立事務所で、真之亮も出席の上、講元等を集めて相談して居た処、その席に連って居た藤村成勝、石崎正基の二人が、俄かに中座して布留の魚磯へ行き、暫くして使者を寄越して、真之亮と、清水与之助、増野正兵衞の三名に、一寸こちらへ来て貰いたい、と言うて来たので、これは必ず悪企みであろう。とて、行かなかった処、藤村のみ帰って来て、清水に小言をならべた。しかしその夜、石崎は逃亡した。

 十月になると二十八日(陰暦九月二十一日)付で、又々、聞き届け難し。と、却下の指令が来た。この時、教祖に思召を伺うと、「しんは細いものである。真実の肉まけバふとくなるで。」と、お言葉があった。

 親神の目から御覧になると、認可云々の如きは全く問題ではなく、親神が、ひたすらに急込んで居られるのは、陽気ぐらしへのつとめであった。激しい迫害干渉も、実は、親神の急込みの表われに外ならない。しかるに、人々はそこに気付かずして、たゞ皮相な事柄にのみ目を奪われ、人間思案に没頭して居たから、空しい出願を、繰り返して居たのである。

 かね/\教祖は、しんばしらの真之亮と仰せになり、道のしんを明らかに示して居られる。しかるに、いかに焦ればとて、何の理も無い人を、たとい一時的にもせよ、責任者とする事は、全く心の置き所が逸脱して居たからである。

 こゝのところをよく考えて、先ず、確りと心の置き所を思案せよ。しんに肉を巻け、とは、しんばしらに誠真実の肉を巻けという意味で、親神の思召のまゝに、真之亮に、理の肉を巻けば、たとい、今は若輩でも立派なしんばしらとなる。と、人間思案を混えぬ神一条の道を教えられた。

 この年には、河内国出身で、当時、大和国郡山在住の平野楢蔵が、信仰し始めた。

明治十九年:

 年が明けると明治十九年、教祖八十九歳になられる。

最後の御苦労:

 二月十八日(陰暦正月十五日)、心勇組の講中が大勢、お屋敷へ参詣に来て、十二下りを勤めさして下され。と頼んだけれども、目下、警察より厳しく取締りあるに付き、もし十二下りを勤めるならば、忽ち、教祖に御迷惑がかゝるから。と、断った。

 上村吉三郎はじめ、一部の者は、勇み切った勢の赴くまゝに、信徒の宿泊所になって居た、門前のとうふやこと村田長平方の二階で、てをどりを始めた。早くもこれを探知した櫟本分署から、時を移さず、数名の巡査が来て、直ちに、居合わせた人々を解散させ、つゞいて、お屋敷へやって来て、表門も裏門も閉めさせた上、お居間へ踏み込んで、戸棚から箪笥の中までも取調べた。すると、お守りにする布片に字を書いたものが出て来たので、それを証拠として教祖と真之亮を引致し、併せて、お屋敷に居合わせた桝井、仲田の両名をも引致した。

 警官の言うには、老母に赤衣を着せるから人が集まって来るのである。

と、それで黒紋付を拵えて差入れた。教祖は、分署に居られる間、赤衣の上に黒紋付を召して居られた。

 さて、夜も更けて翌十九日午前二時頃、教祖を取調べ、十二日の拘留に処した。その様子を、この時、共に留置された真之亮の手記によれば、

教祖様警察御越しなりし当夜二時頃、取調べを受け玉へり、神憑りありし事、身の内御守護の事、埃の事、御守りの理を御説き被成れたのである。尚仰せ玉へるニハ、「御守りハ、神様がやれと仰せらるゝのであります。内の子供ハ何も存じません。」と申玉へり。

と。つゞいて午前三時頃、桝井と仲田の両名が取調べられた。二人とも、御守護を蒙りし御恩に報いるため、人さんにお話するのであります。と、答えた。午前四時頃から、真之亮を取調べた。真之亮は、お守りは私がやるのであります。私は教導職で御座ります。教規の名分によってやります。老母は何も御存じは御座りません。と、答えた。これは、この前年に真之亮以下十名の人々が、教導職の補命を受けて居たからの申開きである。

 その夜御一同は、そのまゝ分署の取調所の板の間で夜を明かされた。

教祖は、艮(東北)の隅に坐って居られた。お側にはひさが付き添うて居た。真之亮は、坤(西南)の隅に坐って夜を明かした。取調所の中央には、巡査が一人、一時間交替で、椅子に腰をかけて番をして居た。桝井、仲田は、檻に入れられて居た。教祖は、真之亮の方へ手招きをなさって、「お前、淋しかろう。こゝへおいで。」と、仰せられた。これに応えて、真之亮は、こゝは、警察でありますから、行けません、と、お側に付いて居るひさから申上げて貰った処、教祖は、「そうかや。」と、仰しやって、それからは、何とも仰せられなかった。

 このような厳しい徹夜の取調べが済んで、まどろまれる暇も無く、やがて夜が明けて、太陽が東の空に上った。が、見張りの巡査は、うつらうつらと居眠りをして居る。巡査の机の上につけてあるランプは、尚も薄ぼんやりと灯り続けて居る。

 教祖は、つと立って、ランプに近づき、フッと灯を吹き消された。この気配に驚いて目を醒ました巡査が、あわてゝ、婆さん、何する。と、怒鳴ると、教祖は、にこ/\なされて、「お日様がお上りになって居ますに、灯がついてあります。勿体ないから消しました。」と、仰せられた。

 夜が明けると、早朝から、教祖を、道路に沿うた板の間の、受付巡査の傍に坐らせた。外を通る人に見せて、懲しめようとの考からである。

その上、犯罪人を連れてくると、わざと教祖の傍に坐らせたが、しかし、教祖は、平然として、ふだんと少しもお変りなかった。

 夜お寝みになる時間が来ると、上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被ぶり、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれた。朝は、何時もの時刻にお目醒めになり、手水を済まされると、それからは、一日中、姿勢を崩さず座って居られた。こうして、櫟本分署に居られる間中、一日としてお変りなかった。ひさは、昼はお側に、夜は枕許に坐って両手を拡げお顔の上を覆ったまゝ、昼夜通して仕えつゞけたが、少しも疲れを覚えなかった。

 食事は、分署から支給するものは何一つ召上らず、ひさが自分に届けられる弁当とすり替えようとしたが、これは巡査に妨げられて果さなかった。又、飲みものは、梶本の家から鉄瓶に入れて運んだ白湯のみを差上げた。心のこもらぬものを差上げるのは畏れ多いと憚ったのと、一つには、教祖の御身の万一を気遣う一念からであった。

 教祖が、坐って居られると、外を通る人は、何と、あの婆さんを見よ。

と言う者もあれば、あの娘も娘やないか。えゝ年をして、もう嫁にも行かんならん年やのに、あんな所へ入って居る。と言う者もあった。格子の所へ寄って来て、散々悪口を言うて行く者もあった。しかし、後年、ひさは、わしは、そんな事、なんとも思てない。あんな所へ年寄り一人放って置けるか。と、述懐して居た。

 しかし、教祖は、何を見ても聞いても、少しも気に障えさせられず、そればかりか、或る日、菓子売りの通るのを御覧になって、「ひさや、あの菓子をお買い。」と、仰せられた。何なさりますか。と、伺うと、「あの巡査退屈して眠って御座るから、あげたいのや。」と、仰せられたので、こゝは、警察で御座りますから、買う事出来ません。と答えると、「そうかや。」と、仰せられて、それから後は、何とも仰せられなかった。

 分署にお居での間も、刻限々々にはお言葉があった。すると、巡査は、のぼせて居るのである。井戸端へ連れて行って、水を掛けよ。と、言うた。しかし、ひさは全力を尽くしてこれを阻止し、決して一回も水をかけさせなかった。

 或る日のこと、「一ふし/\芽が出る、・・・」と、お言葉が始まりかけた。すると、巡査が、これ、娘。と、怒鳴ったので、ひさが、おばあさん、/\。と、止めようとした途端、教祖は、響き渡るような凛とした声で、「この所に、おばあさんは居らん。我は天の将軍なり。」と、仰せられた、その語調は、全く平生のお優しさからは思いも及ばぬ、荘重な威厳に充ち/\て居たので、ひさは、畏敬の念に身の慄えるのを覚えた。肉親の愛情を越えて、自らが月日のやしろに坐す理を諭されたのである。

 又、刻限々々にお言葉があって、「此処、とめに来るのも出て来るも、皆、親神のする事や。」と。教祖の御苦労については、「親神が連れて行くのや。」と。官憲の取締りや干渉については、「此処、とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや。」と。又、拘留、投獄等の出来事に際しては、「ふしから芽が吹く。」と、仰せられ、その時その事柄に応じて、眼の前の出来事の根柢にある、親神の思召の真実を説き諭して、人々の胸を開きつゝ、驚き迷う人々を勇まし励まして連れ通られた。

 この冬は、三十年来の寒さであったというのに、八十九歳の高齢の御身を以て、冷い板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である。

 この御苦労の間、清水、増野、梅谷等はずっと梶本松治郎宅に居て、昼となく夜となく、門迄御機嫌を伺いに行った。そして、付添いのひさに弁当を差入れ、その都度、教祖の様子を伺うて来るのが、清水と増野の役であった。又、信者の人々で梶本宅まで見舞に来る者は、連日、引も切らなかった。

 お屋敷に残って留守居に当ったのは、飯降、高井、宮森等であった。

 こうして、教祖が御苦労を了えられて、三月一日(陰暦正月二十六日)櫟本分署からお出ましの時には、お迎えの人は前年より更にその数を増し、門前一帯に人の山を築き、櫟本からお屋敷迄、多数のお迎えの人と人力車の行列が続いたという。

 しかし、当日午前九時お屋敷へ御到着の頃には、櫟本分署から巡査が四名出張して来て、門前に張番をし、人々を一歩も中へ入れなかった。

 明治十九年五月二十五日(陰暦四月二十二日)、櫟本分署から、真之亮に対して呼状が来た。出頭すると、大阪で茨木基敬が、みかぐらうたを警察に没収された時に、大和国三島村中山新治郎宅で貰うた。と、答えた為、この件について、大阪の警察署から櫟本分署へ通報して来たからである。新治郎とは真之亮の後の名である。この時、真之亮から答書を出した。

 五月二十八日(陰暦四月二十五日)には、神道管長稲葉正邦の代理、権中教正古川豊彭、随行として、権中教正内海正雄、大神教会会長、小島盛可の三名が、取調べのためお屋敷へやって来た。その日は、取次から教理を聞き、翌二十九日、教祖にお目にかゝり種々と質問したが、教祖は、諄諄と教の理を説かれた。

 あとで、古川教正が真之亮をさし招いて、この人は、言わせるものがあって言われるのであるから、側に居るものが、法に触れぬよう、能く注意せんければならん。と言った。

 この時、五ケ条の請書を提出した。それに連名した人々は、真之亮、飯降伊蔵、辻忠作、桝井伊三郎、山本利三郎、高井直吉、鴻田忠三郎であった。(註五)

つゞいて、三名の人々は、取次からかぐらづとめや面の説明を聞き、二階で十二下りのてをどりを検分した。

 同じく、六月十六日(陰暦五月十五日)、櫟本分署長と外勤巡査一名とが、人力車に乗って、突然、お屋敷へやって来て、直ちに、車夫に命じて表門を閉じさせ、教祖のお居間に踏み込んで取調べたが、この時には何の異状も無かった。

 真之亮の手記に、この年、七月二十一日(陰暦六月二十日)教祖は、「四方暗くなりて分りなき様になる、其のときつとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ。」と、仰せられたと誌して居る。誠に容易ならぬ時の迫って居る事を、予め告げて人々の心定めを促し、その日に備えて、かんろだいのつとめの手を確かに覚えるよう急込まれた。天保九年以来お骨折りのたすけ一条の根本の道たる、かんろだいのつとめの完成を、急がれたのである。

十九年八月のふし:

 同年八月二十五日、陰暦七月二十六日の夜、三輪村の博徒、木屋天こと外島市太郎その他数名の者がやって来て、門をたゝき、奈良警察署から来た。と、呼ばわった。偽りとも知らず、門を開くと、入るや否や、この村を焼き払うてやる。と、言うて、井戸端へ行き、末期の水や。と、水を飲み、家の中へ侵入して来た。二階で会議中の人々は、この異様な物音や話声を聞き、梯子段を走って下りて家を守った。又、村人達もこの事を聞き付け、手に手に提灯を持って集まって来た。

 暴徒の中には、教祖のお居間へ乱入しようとする者もある。これに対しては、平野、山本、桝井、宮森等が、防いだ。又、一方では、村民が、暴徒とたゝき合って居るのもあれば、組打ちして居るのもある。又、走って警察へ訴えに行く者もある、という大騒動であった。

 暫くしてから、警察から巡査が出張して来て、取調べた。これに対する当方の答が穏やかであったために、暴徒達は、たゞ説諭を受けただけで済んだ。

 翌日、平野と外島が話し合うてみると、もと/\旧知の間柄であったので、よく説諭を加え、金四円也を車賃として与えたが、その時、外島が打明けた処によると、兄貴は郡山へ戻って居ると聞いたので、老母をかつぎ出そうと思うて企らんだが、大いに失敗だった。と語った。

 道は、こゝ数年の間に更に弘まり、先に誌したものに加えて、阿波真心講、遠江真明組、斯道会、天地組、天元組、天明講、兵神真明講、天龍講、大和講、日元講、東京真明組、治心講池田組等へと伸びて行った。

 この十九年には、大和国郡山の増田甚七、東京の中台勘蔵、大和国陵西村の植田平一郎等が、それ/\信仰し始めた。

 「ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。・・・ひながたの道より道無いで。」

 (明治二二・一一・七 刻限)

教祖は、尊い魂のいんねんのお方であり、月日のやしろに坐す御身を以て、説いたゞけでは救かる道を歩もうともせぬ一列人間に、救かる道を教えようとて、自ら先頭に立って、どのような中をも通り抜け、身を以て万人の救かるひながたを示された。

 ひながたの道を歩まぬならば、ひながたは要らぬ。

 教祖が五十年の長い間、身を以て示されたひながたこそ、我々道の子が陽気ぐらしへと進むたゞ一条の道であって、このひながたの道を措いて外に道はない。教祖が、いかなる中をも陽気に勇んで通られた、確かな足跡があればこそ、我々人間は、心安く、どのような身上事情の中からも、勇んで立ち上る事が出来る。

 教祖こそ、ひながたの親である。

註一 本目録中、下石径三尺二寸とあるが、おふでさきにある寸法は三尺であり、没収された石も約三尺である。従って、この寸法の出所は不明である。

註二

 差入申証券

一従前中山新治郎宅ヲ借受教会出張所ニ設置候処今般拙寺勝手ニ付院代并ニ納所出張之上本月十四日限リ引払致候就ハ是迄之書類取消且指令書之義ハ返却ニ相成然ル上ハ他ヨリ何等之苦情申出候共其許殿江必御迷惑相掛ケ申間敷候間為後日差入証券如件

大和国宇知郡久留野村

元金剛山地福寺柳井津

 明治十五年嶺明代理

十二月十四日川端義観 印

仝寺納所

木村正則 印

仝国山辺郡三嶋村

 中山新治郎殿

註三

 建言書

 私儀者幼年之時ヨリ農事ニ付種々穀物上品ヲ年々撰シ出シテ其上試験シテ作増シ相成ル種子ヲ人々施候折柄御維新ニ相成然ル処大坂府ニ於テ政府之綿糖共進会ヲ開キニ相成際元三大区中人撰ヲ以出張スル処則農事集談会ト相成ニ付而ハ会員ニ被任其砌ニ通信委員之儀被仰然ル処亦々東京ニ於テ第二博覧会之節モ農談会之時会員ニ被任畢テ其後新潟県江勧農教員ニ被雇貳ケ年相勤テ暇乞本国エ帰国ス就中此度山辺郡三嶋村中山氏八十六歳之老母ニ珍シ助ケ有之ニ付如何ニ茂審儀之事と察シ則剋限待テ月日自如何成ル病気ト雖モ是迄之悪事ヲ懺悔シテ天道之教之道実と思ひ人の道ヲ不違シテ神ノ取次ニ随ヒ政心ヲシテ願エ者何程之六ケ鋪難病ニ而茂速ニ全快スルニ依テ只今ニ而ハ十六七ケ国より日々参詣有之処大坂府ニ於テ天輪王命と云神者無キ者と何等之取調モ無クシテ人ヲ助ルヲ差留ニ相成居ル然ルト雖遠国より日々参詣者段々ト増ス斗尤旧幕之頃ニハ京都吉田殿より免モ有今差留メ相成時者神ノ立腹ハ漸意成ル事テナシ此儀如何成ル咎メモ難斗と申候者神ノ源ヲ尋ル月日ガ此度天輪王命ト顕テ珍シ助ヲ被成候哉ニ察シ如何ニ茂審儀成ル神ノ御言ハ之写并筆先ヲ見ルニ是全人間之業ニテ者有間敷事右様之事人並ニテ者迚モ不云 出来候事斗何等之事テモ勤一条者病気ハ勿論百姓第一之助ケ芽出之札実ノリ札肥シ助ケ札蟲害除ケ札其他何ニよらず願ヒ道ハ何ニ不叶ト云事更ニナシ此神之筆先ニモ有之通徳川天下之亡ル事モ前年ニ仮合ヒテ御噺モ有之取次人者存シ居候其他異人杯モ来ル事モ前ノ如ク先ニ見得ル然ルト雖モ右始末之儀者皆々存し居候得共只今迄者御上ヲ恐テ詳ニ申上ル人者更ニナシ此度者私農事通信免モ有故一日モ早ク万民ヲ助ケ農作増相成ヲ相弘ルニ於テ者是末代之普益相成事者不過之則皇国第一之事と愚慮仕儀ニ付此段恐モ不顧奉建言候右ニ付神ノ筆先ハ壹号ヨリ十七号迄有之内六号十号書抜 十二下リ勤

〆四点相添エ御高覧奉入候右ヲ建言スルハ此神者可建置神と察し候間依而奉上申仕候也

 大坂府下大和国

式下郡檜垣村

明治十六年三月十五日鴻田忠三郎

東京

大蔵省御庁

註四

 証

 大和国山辺郡三島村

平民

 科料金弐円四十銭中山ミキ

 右領収候也

 明治十六年八月十五日

 丹波市分署 印

註五

 御請書

一 奉教主神は神道教規に依るべき事

一 創世の説は記紀の二典に依るべき事

一 人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事

一 神命に托して医薬を妨ぐべからざる事

一 教職は中山新治郎の見込を以て神道管長へ具申すべき事

 但し地方庁の認可を得るの間は大神教会に属すべき事

右の条々堅く可相守旨御申渡に相成奉畏候万一違背仕候節は如何様御仰付候共不苦仍て教導職世話掛連署を以て御請書如此御座候也

中山新治郎

飯降伊蔵

桝井伊三郎

山本利三郎

辻忠作

高井直吉

鴻田忠三郎

神道管長代理

権中教正古川豊彭殿

第十章 扉ひらいて

明治二十年:

 このように、内外多事のうちに、道は尚も弘まってゆくばかりであったが、明治十九年も暮れ、明けて二十年一月一日(陰暦十二月八日)の夕方に、教祖は、風呂場からお出ましの時、ふとよろめかれた。その時、伺うと、「これは、世界の動くしるしや。」と、仰せられた。その日はさしたる事もなかったが、翌日は御気分宜しからず、一同心配したが、この時は、程なく持ち直された。

 が、一月四日(陰暦十二月十一日)、急にお身上が迫って来た。そこで、御休息所の、教祖のお居間の次の間で飯降伊蔵を通して、思召の程を伺うた処、

さあ/\もう十分詰み切った。これまで何よの事も聞かせ置いたが、すっきり分からん。何程言うても分かる者は無い。これが残念。疑うて暮らし居るがよく思案せよ。さあ神が言う事嘘なら、四十九年前より今までこの道続きはせまい。今までに言うた事見えてある。これで思やんせよ。さあ、もうこのまゝ退いて了うか、納まって了うか。

とのお言葉があった。

 お前達は、親の言葉を肚の底から聞いて居ない。この事が親にとっては実に残念である。お前達は、世間普通の人間思案をまじえて物事を考え、疑いながら暮して居る。が、このように、親神の話を素直に聞かない。肚の底から一条心になれない、というのは実に残念である。親神の言う事が嘘なら、四十九年前、即ち天保九年以来この道が続いて居る筈が無いではないか。親神の道が正しいか、世間普通の人間思案が正しいか、よく思い比べて思案せよ。皆の者の成人が、余りにも鈍く、聞分けが、付かないようなら、をやはもうこのまゝ息を引きとって了うかも分らんぞ。

との仰せである。そして、この時、教祖は、息をせられなくなり、お身上が、急に冷くなった。

 そこで、一同打驚いて、これは、かね/\お急込みのつとめを、官憲の圧迫ゆえとは言いながら、手控えて居たのが間違いであった、と気付き、翌一月五日(陰暦十二月十二日)から、鳴物は不揃いのまゝであったが、連日お詫びのつとめをさして頂いた。しかし、官憲を憚って、依然、夜中門戸を閉ざして、ひそかにつとめして居たのである。そのためか、教祖の身上は、幾らか持ち直されたが、依然として何もお召し上りにならぬ。そこで一月八日夜(陰暦十二月十五日夜)、その日居合わせた人々、それは、昨年来、公然とつとめをさして頂きたい上から、教会設置の相談をして来た人達であるが、その人々の相談で、世界並の事二分、神様の事八分、心を入れつとめをなす事、こふき通りに十分いたす事。と定まった。時に、翌一月九日(陰暦十二月十六日)午前五時であった。

 この心定めを受け取られてか、この日(陽暦一月九日)は朝から、教祖は御気分よろしくなられ、御飯さえ少々召し上られた。そして、教祖のお口から、親しくお話があった。

さあ/\年取って弱ったか、病で難しいと思うか。病でもない、弱ったでもないで。だん/\説き尽してあるで。よう思やんせよ。

 決して、年とって弱ったのでもなければ、病気という訳でもない。もう説くだけは十分説き尽した。今こそ、心定めの時が来て居るのである、をやの身上に異状を見せて、たすけ一条の道であるつとめを急込んで居る。

と、諭された。

 が、翌一月十日(陰暦十二月十七日)には、教祖の御気分が、又々勝れない。そこで、この日午後三時頃、一同相談の上、次の間で飯降伊蔵によって、どうしたら教祖のお身上が快くなりましようか。今迄のように夜だけでなく、昼もつとめさして頂きましようか。と伺うと、

さあ/\これまで何よの事も皆説いてあるで。もう、どうこうせいとは言わんで。四十九年前よりの道の事、いかなる道も通りたであろう。

分かりたるであろう。救かりたるもあろう。一時思やん/\する者無い。

遠い近いも皆引き寄せてある。事情も分からん。もう、どうせいこうせいのさしづはしない。銘々心次第。もう何もさしづはしないで。

 もう今迄に、言う事は皆言うてある。これを各自の心で確り判断する事が肝腎である。何でも彼でも親神に尋ねて一時をしのぎ、後で心を鈍らすというような事を、繰り返して居ては何にもならぬ。今迄に四十九年も通って来て、あらゆる場合のひながたを出してある。皆が勇んでおぢばへ帰って来た日もあれば、心ならずもをやの苦労を見送った日もあろう。又、おたすけを頂いた者も数々あろう。が、その中を通り抜けて、現に今日迄道はつゞいて居る。このみちすがらを振り返って見て、今このをやの身上に異状を見せて、急込んで居る事の真意を、各自々々の心に確りと悟りとれ。しかも、銘々勝手にではなく、談じ合い心を練り合うて、一つの心で一つの道に、確りと一つの龍頭に集まるようにせよ。

と、諭された。

 この、もう指図はしない、との仰せに一同打驚き、真之亮に申上げた上、居合わせた人々は直ちに相談を始めた。その人々は、前川菊太郎、梶本松治郎、桝井伊三郎、鴻田忠三郎、高井直吉、辻忠作、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、清水与之助、諸井国三郎である。

 相談の後、皆の者から、親神の道の御話の事、即ち、おつとめをしましよう。と言うて来たが、真之亮は、何れ考の上。と、答えた。警察の従来からの弾圧振りと、教祖の容体とを併せ考えると、即答するには、事は余りにも重大であった。

 その夜九時過ぎ、更に、次の人々が相談した。鴻田忠三郎、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、清水与之助、諸井国三郎、仲野秀信である。そして、真之亮の返事を待ったが、依然として答はない。そこで、前川、梶本両名の意見を問うた。両名は、それでは、我々からしんばしらの意見を伺おう。という事になって、この旨を述べ、相談したが、今晩、親神の仰せ通り、徹夜でおつとめしよう。という案は、官憲の態度が気懸りのため決定とならず、この点について、真之亮から教祖に伺う、という事に決った。その時はもう十一日(陰暦十二月十八日)の未明になって居たので、夜が明けて一同は休息した。

 この一同の真心を親神がお受け取り下されてか、その日は、教祖の御気分宜しく、床の上で、お髪を梳られた。

 翌十二日の夜も、一同は、前々日のつゞきで、真之亮の返事を待って居たが、夜も更けて、十三日(陰暦十二月二十日)午前三時頃、いよ/\お伺いしよう。という返事があった。そこで、真之亮に梶本、前川の両名が付き添い、教祖の御枕辺に進んでお伺い申上げた。すると、教祖直々のお言葉に、

さあ/\いかなる処、尋ねる処、分かり無くば知らそう。しっかり/\聞き分け。これ/\よう聞き分け。もうならん/\。前以て伝えてある。難しい事を言い掛ける。一つの事に取って思やんせよ。一時の処どういう事情も聞き分け。

と、仰せられた。

 お前達は、何程言うても分らないではないか。確り聞き分け、もう何もお前達の言訳は聞かない。話は、四十九年以前からしてあるから、その時から練って居ったならば、何も難しい事はない。前々から心を揃えてやって居るのであるならば、つとめは出来るのである。

 これに対して、真之亮から、前以て伝えあると仰せあるは、つとめの事で御座りますか。つとめ致すにはむつかしい事情も御座ります。と申上げると、

さあ/\今一時に運んで難しいであろう。難しいというは真に治まる。長う/\/\四十九年以前から何も分からん。難しい事があるものか。

 今直ぐにつとめをするという事は、一見難しいように思うであろうが、難しい中を通る真実が、親神に受け取って頂けるのである。天保九年以来、今日迄の事を思うてみよ。決して難しい事があるものか、との仰せである。

 これに対して、真之亮から、法律がある故、つとめ致すにもむつかしゆう御座ります。と申上げると、

さあ/\答うる処、それ答うる処の事情、四十九年以前より誠という思案があろう、実という処があろう。事情分かりが有るのか無いのか。

 そんな返答をするが、この道創まって以来、この道はたゞ一条の誠真実の道である。心を入替え、真実の心を以て、陽気ぐらしの世に進んで行くのが我々の道であるという事が、分って居るのかどうか。先に治めなければならない事は、法に関係のある問題よりも、喜びの心を治める問題なのである。皆の心が陽気に勇んで、そして進むならば、自ら開ける道がある。

と教えられた。

 これに対して、真之亮から、親神の仰せと国の掟と、両方の道の立つように御指図願います。と願うと、

分からんであるまい。元々よりだん/\の道すがら。さあ/\今一時に通る処、どうでもこうでも仕切る事情いかん。たゞ一時ならん/\。

さあ今という/\前の道を運ぶと一時々々。

 四十九年前から、話もし、だん/\とひながたに見せてある。今という今と成っては、どうでも話通りの事を、ともかくもやれ。何でもよいから、つとめをせよ。

と、急込まれた。

 これに対し、真之亮から、毎夜おつとめの稽古致しまして、確り手の揃うまで、猶予をお願い致します。とて、尚も、延期を願うと、

さあ/\一度の話を聞いて、きっと定め置かねばならん。又々の道がある。一つの道もいかなる処も聞き分けて。たゞ止めるはいかん。順序の道/\。

 親神の話を確り聞いて、心を定めるという事が一番大切な事である。

将来の事を考えれば、それ/\手続きが要るが、この今という今、この抜差しならぬ時に当っては、心を定めるという事が一番肝腎である。心さえ定まれば、道はいずれ開けて来る。法律があるからとて、たゞつとめを止めるのは、いけない。順序の道をよく思案してくれるよう。

と、促された。

 これに対して、真之亮から、講習所を立て、一時の処、つとめの出来るようにさして貰いとう御座ります。と申上げると、

安心が出けんとならば、先ず今の処を、談示々々という処、さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。

 何程言うてもお前達子供には分らないのであろう。法によっての順序というようにとって、そんな事を言うて居るが、今という今、をやの身上は抜差しならぬ事態に迫って居る。この抜差しならん今というこの時機を、どう考えて居るのか。

とて、この期に臨んでの心の持方を仕込まれた。

 これに対して、真之亮から、つとめ/\とお急込み下されますが、只今の教祖のお障りは、人衆定めで御座りましようか。どうでも本づとめいたさねばならんので御座りますか。と、伺うた。漸くこゝに於いて、抜差しならんという意味について、親神の思召と人間の心とが、一つ心に寄って来たのである。抜差しならんと仰しやって居るのは、人の揃う事、即ち人衆定めでありますか。或は、本づとめ即ちかんろだいのつとめにかゝる事でありますか。何れが教祖の身上を以てお急込み下されている節でありますか。と伺うと、これに対して、

さあ/\それ/\の処、心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。心の得心出来るまでは尋ねるがよい。降りたと言うたら退かんで。

 親神の急込んで居るのは、心定めの人衆定めである。このふしに際してお前達の心を定め、心の定まった処によって人衆を定める。心の定まるというのも、この難しい事情があるから定まるのであって、事情がなければ、真に心が定まらない。この上はお前達の心次第胸次第である。

この事をよく悟って、神一条に、つとめ一条に進むならばよいのである。

未だこれでも得心出来ないならば、心の得心出来るまで尋ねよ。総て教えて置こう。降りたと言うたら退かぬ。取返しのつかぬようになる前に、聞いて置け。

との仰せである。

 そこで、つゞいて、押して願として、教祖のお身上の平癒を願った処、

さあ/\いかなる事情。尋ねる事情も、分かり無くば知らそ。しっかり聞き分け。これ/\よう聞き分け。もうならん/\/\。難しい事を言い掛ける。一つ心に取って思やんせ。一時の事情、どういう事情を聞き分け。長らく四十九年以前、何も分からん中に通り来た。今日の日は、世界々々成るよう。

と、お教え頂いた。もうその頃には、夜が明けかゝって居た。

 今迄は何も分らなかった。しかし、今後は一つ心になって思案せよ。

総ての事は、つとめの事に当てはめて事情を考えよ。四十九年もの長い間、をやはひながたの道をつけて苦労艱難の中を通って来たが、お前達は、何も知らずに随いて来たのである。が、今こそ、もう時が迫って居る。世界へ出るのである。たすけが世界へ及ぶのである。

と、宣言された。

 これに対して、真之亮から、教会本部をお許し下された上は、いかようにも親神の仰せ通り致します。と願うと、

さあ/\事情無くして一時定め出来難ない。さあ一時今それ/\、この三名の処で、きっと定め置かねばならん。何か願う処に委せ置く。

必ず忘れぬようにせよ。

 一遍ではどうもならんであろうが、まあやっても宜かろう。しかし、それよりも先に、お前達三人寄って、屹度、一つにまとまって、よく相談するのが大切である。必ず三人が一つ心に合わせてやるという事を、忘れてはならんぞ。

と、諭された。

 そこで、真之亮から、教会設置をお許し下されたについて、ありがとう御座います。と、お礼言上すると、

さあ/\一時今から今という心、三名の心しいかりと心合わせて返答せよ。

 将来の事については許し置くが、今直ぐ実行せよと言うて居るつとめの方についてはどうか、迫った身上によって急込んで居る今の時機に於いて、お前達はどんな心定めに向うのであるか、三名心を一つにして、確り返答せよ。

と、仰せられた。

 これに対し、真之亮から、この屋敷に道具雛型の魂生れてあるとの仰せ、この屋敷をさして、この世界初まりのぢばゆえ天降り、無い人間無い世界こしらえ下されたとの仰せ、かみも我々も同様の魂との仰せ、右三ケ条のお尋ねあれば、我々何と答えて宜しく御座りましようや、これに差支えます。人間は法律にさからう事はかないません。

と、申上げた処、

さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。

と、噛んで含めるように、やさしく教えられた。

 親神が先ず坐して、この世界が生れたのである。世界が生れてから、そこに国々があり、その中に人々が居り、その人々が身体を借りて居る。

その人間が、住み易いように申し合わせて作ったのが法律である。いかに法律が出来ても、それを活用するか否かは、人の心にある。即ち、一番大切なのは心である。この順序を知ったならば、確りと親神の話を聞いて、真心、即ち親神に通じる真の心を定める事が何よりも大切である、と、教えられた。

 これに対して、真之亮から、我々身の内は承知仕りましたが、教祖の御身の上を心配仕ります。さあという時は、いかなる御利やくも下されましようか、とて、根本の順序の理はよく分りましたが、今日の教祖のお身上が心配でなりません。さあという差迫った時には、我々の心通り確りと踏ん張って下さいましようか。と、念を押した。これに対し、

さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。

 人に真実の心があれば、親神の真実の守護がある。いよ/\という時は、親神が引き受ける。この世界の火、水、風は皆、親神の心のまゝに司る処である。

と、鮮やかに引き受けられた。

 尚も押しての願に対し、

さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。

 真実を以て買うならば、真実の守護を見せてやろう、親神の自由自在の守護を頂くには、皆々が真心の限りを尽して事に当るのが肝腎である、と、教えられた。

 一月十三日からは、小康を保ちながらお過し頂いた。時には身を越し、庭へさへお下り頂いた。

 ついで、一月十八日(陰暦十二月二十五日)夜から、毎日々々つとめが行われた。そして、一月二十四日、即ち、陰暦正月元旦には、教祖の御気分大そう宜しく、床から起き上られ、一同に向って、

さあ/\十分練った/\。このやしき始まってから、十分練った。

十分受け取ってあるで。

と、いかにも打解けた、そして満足気な、また一面親心溢れるお言葉を賜った。年賀に集まった信者の人々に賜ったお言葉であると信じられる。

先日来のお身上で、いろ/\と心の練合いが進められた。そして、正月元旦に、

この屋敷初まって以来十分に練った。皆の心も十分に受け取って居るで、と、御満足の挨拶を下されたのである。

 一月十八日(陰暦十二月二十五日)夜から始まった、かぐら・てをどりは、二月十七日(陰暦正月二十五日)夜まで続けられ、人々は寒中も物かは、連日水行して、真心こめて御平癒を祈った。

 教祖の御気分も、引き続きお宜しいように見受けられ、二月十三日頃(陰暦正月二十一日頃)には、下駄をはいて庭に下り、元気に歩かれた程である。

 処が、二月十七日夜(陰暦正月二十五日夜)、今にして思い返せば、教祖が現身を以てこの世に現われて居られた最後の夜であるが、この夜、教祖のお身上宜しからず、飯降伊蔵を通して伺うた処、扉を開いて:

 さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。

とのお言葉である。

 人間は、親神の目から御覧になれば、皆一列に兄弟姉妹である。魂の理から言うならば、些かも高低上下の差別はない。ろっくの立場、一列兄弟の立場に於いて、総ての人々が語り合う処にこそ、陽気ぐらしの世界への門出がある。即ち、人々の心をろっくの地にしようと思うが、さて、扉を開いて地を均そうか、扉を閉めて地を均そうか。

と、問われた。

 これに対し、一同から、扉を開いてろくぢにならし被下たい。と答えると、この時、伺いの扇がさっと開いた。そして、

成る立てやい、どういう立てやい。いずれ/\/\引き寄せ、どういう事も引き寄せ、何でも彼でも引き寄せる中、一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。

 道の理と世界の理とが、いよ/\立て合うて来た。世界たすけの道をつけようとて、どのような者もこのような者も、皆、元のやしきへ引き寄せて来てあるし、どのような事柄も、皆、このやしきへ引き寄せて来てある。何でも彼でも、皆、引き寄せる中に、扉を開いて世界たすけに出たならば、ころっと道の様子が変って来る。

と、仰せられた。

 これにつゞいて、尚も、世界の事情運ばして貰い度う御座ります。と、又しても、教会設置の事を願うと、

ならん/\/\。

 取り違えてはならん、もっと迫って居る。

と、お知らせ頂いた。

 明くれば二月十八日、陰暦正月二十六日である。(註一)恰も、従来から毎月、つとめをして来た日であるし、殊には、教祖のお身上に関して、つとめをお急込みになって居る。近郷近在からは多数の参拝人が詰めかけて居る。しかも、官憲の目は厳しく、一つ間違えば、お身上中の教祖をも拘引しかねまじい剣幕である。人々はこの板挟みの中に立って、思案に暮れた。そこで、思召を伺うと、

さあ/\いかなるも、よう聞き分けよ/\/\。さあ/\いかなるもどうも、さあ今一時、前々より毎夜々々々々伝える処、今一つのこの事情早うから、今からと言うたなあ。さあ、今という処諭してある。今から今掛かるという事を、前々に諭してある処、さあ今の今、早くの処急ぐ。さあという処、応分という処あろう。待つという処あろう。さあ/\一つの処、律が、律が怖わいか、神が怖わいか、律が怖わいか。

この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。前々より知らしてある。今という刻限、今の諭じゃない。どういう処の道じゃな、尋ぬる道じゃない。これ一つで分かろう。

 その事は前々から繰り返し/\諭した通りである。もっと早くから言うて居る。さあ、今と言うたら今直ぐに掛れ。さあ、早く急いで取り掛れ。手続きをするから、それ迄待ってくれ、というような悠長な事を言うて居る場合ではない。一体、お前達は法律が怖いのか。をやの話が尊いのか、どちらに重きを置いて信心をして居るのか、この点をよく考えなければいけない。親神の思いが奈辺に在るかという事は、前々から十分諭してある。説いてある。今の刻限は、もう尋ねて居る時ではない。

これだけ言うたら分るであろう。

との仰せである。

 このお言葉を頂いて、一同心を定めて居ると、その日の正午頃から、教祖のお身上がいよ/\迫って来たので、一同全く心定まり、真之亮から、おつとめの時、若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめせよ。と、言い渡した。一同意を決し、下着を重ね足袋を重ねて、拘引を覚悟の上、午後一時頃から鳴物も入れて堂堂とつとめに取り掛った。その人々は、地方、泉田藤吉、平野楢蔵。神楽、真之亮、前川菊太郎、飯降政甚、山本利三郎、高井直吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田与之助。手振り、清水与之助、山本利三郎、高井直吉、桝井伊三郎、辻忠作、岡田与之助。鳴物、中山たまへ(琴)、飯降よしゑ(三味線)、橋本清(つゞみ)であった。

 当時まだ幼少であったたまへも、孃、今日はお前もおつとめに出よ。

との、真之亮の言葉によって、つとめに出た。家事取締りに当ったのは、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、梶本松治郎。以上総計十九名。

 つとめは、かんろだいを中に圍んで行われた。この日、つとめの時刻には参拝人が非常に多く、その数は数千に達したので、つとめ場所の南及び東には、濫りに入り込まないよう竹を横たえて結界としたが、次々とその数を増して来る参拝人のため、遂にその竹は細々に割れたという。

つとめは午後一時頃から始まったが、とう/\巡査は一人も来なかった。

かくて、つとめは無事に了った。人々にとっては、これこそ驚くべき奇蹟であった。

 しかし、これと立て合うて、陽気な鳴物の音を満足気に聞いて居られた教祖は、丁度、「だいくのにんもそろひきた」という十二下りの最後のお歌の了る頃、一寸変ったそぶりをなさったので、お側に居たひさが、お水ですか。と、伺うた処、微かに、「ウ-ン」と、仰せられた。そこで水を差上げた処、三口召し上った。つゞいて、おばあ様。と、お呼び申したが、もう何ともお返事がない。北枕で西向のまゝ、片手をひさの胸にあて、片手を自分の胸にのせ、スヤ/\と眠って居られるような様子であった。ひさは大いに驚いて、誰か居ませんか、早く真之亮さんを呼んで来て下され。と、大声に呼んだ。報せを聞いて、真之亮が早速駈けつけた。つゞいてたまへ、おまさ、と、相次いで駈けつけて来た。

 たまへの着いた時、真之亮は、孃、早よ来い。と、大声で呼んだ。たまへは、おばあ様がおやすみになって居るのに、そんな大声を出してよいものか、と、いぶかって居ると、側に居たひさが、孃ちやん、おばあ様がこんなになられた。と、言いながら、たまへの手を教祖のお顔に持って行き、つめたいやろな。おばあ様は物言わはらへんねがな。と、言うたので、それを聞いて、初めてそれと知ったたまへは、「ワ-」と大声で泣いた。真之亮は、泣くな。と、なだめてから、早速一同の人々に事の由を伝えた。

 つとめを無事了えて、かんろだいの所から、意気揚々と引き揚げて来た一同は、これを聞いて、たゞ一声、「ワ-ッ」と悲壮な声を上げて泣いただけで、あとはシ-ンとなって了って、しわぶき一つする者も無かった。

 教祖は、午後二時頃つとめの了ると共に、眠るが如く現身をおかくしになった。時に、御年九十歳。

 人々は、全く、立って居る大地が碎け、日月の光が消えて、この世が真っ暗になったように感じた。真実の親、長年の間、何ものにも替え難く慕い懐しんで来た教祖に別れて、身も心も消え失せんばかりに泣き悲しんだ。更に又、常々、百十五歳定命と教えられ、余人はいざ知らず、教祖は必ず百十五歳までお居で下さるものと、自らも信じ、人にも語って来たのみならず、今日は、こうしておつとめをさして頂いたのであるから、必ずや御守護を頂けるに違いないと、勇み切って居ただけに、全く驚愕し落胆した。人々は、皆うなだれて物を言う気力もなく、ひたすらに泣き悲しんで居たが、これではならじと気を取り直し、内蔵の二階で、飯降伊蔵を通してお指図を願うと、教祖存命の理:

 さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

と、お言葉があった。

 さあ今から世界を平な地にする。今迄に言うた事は、実の箱に入れて置いたから、いよ/\親神がやしろの扉を開いて出たからには、総て現われて来る。子供可愛いばっかりに、その心の成人を促そうとて、まだこれから先二十五年ある命を縮めて、突然身をかくした。今からいよいよ、世界を駈け巡ってたすけをする。しっかり見て居よ。今迄とこれから先と、どう違うて来るか確り見て居よ。昨日、扉を開いて平な地に均そうか、扉を閉めて均そうか、と言うた時に、扉を開いて平な地に均してくれと、答えたではないか、親神は心通りに守護したのである。さあこれ迄から、子供にやりたいものもあった。なれど、思うように授ける事が出来なかった。これから先、だん/\にその理を渡そう。

 このお諭しを聞いて、一同は、アッと思った。が、昨日答えた言葉を、今日言い直す事は出来ぬ。昨日お答え申上げた時の一同の心からすれば、姿をかくされようとは、全く思いもかけない事であった。しかしながら、姿をかくして後までも、生きて働かれると聞き、成程、左様であるか、教祖は、姿をかくして後までも、一列たすけのために、存命のまゝお働き下さるのか、それならば、と、一同の人々は漸く安堵の胸を撫で下ろした。

 さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで、日々の道を見て思やんしてくれねばならん。

(明治二三・三・一七)

一列子供を救けたいとの親心一条に、あらゆる艱難苦労の中を勇んで(明治二三・三・一七)通り抜け、万人たすけの道をひらかれた教祖は、尚その上に、一列子供(明治二三・三・一七)の成人を急込む上から、今こゝに二十五年の寿命を縮めて現身をかくさ(明治二三・三・一七)れたが、月日の心は今も尚、そしていつ/\までも存命のまゝ、元のや(明治二三・三・一七)しきに留まり、一列子供の成人を守護されて居る。日々に現われて来る(明治二三・三・一七)ふしぎなたすけこそ、教祖が生きて働いて居られる証拠である。

(明治二三・三・一七)

月日にハせかいぢううハみなわが子

かハいいゝばいこれが一ちよ 

一七 16

註一 明治二十年二月十八日、陰暦正月二十六日は、西暦千八百八十七年二月十八日にあたる。

通り抜け、万人たすけの道をひらかれた教祖は、尚その上に、一列子供の成人を急込む上から、今こゝに二十五年の寿命を縮めて現身をかくされたが、月日の心は今も尚、そしていつ/\までも存命のまゝ、元のやしきに留まり、一列子供の成人を守護されて居る。日々に現われて来るふしぎなたすけこそ、教祖が生きて働いて居られる証拠である。

月日にハせかいぢううハみなわが子

かハいいゝばいこれが一ちよ 

一七 16

註一 明治二十年二月十八日、陰暦正月二十六日は、西暦千八百八十七年二月十八日にあたる。