天理教のおつとめ・つとめの歴史から大切さを学ぶ

天理教の神殿(夜)

天理教の教のおつとめは、最初から今の形ではありませんでした。

教祖の中山みきが、だんだんと教えられたのです。

おつとめ(みかぐらうた)は第一節から第五節までにわけられています。

ここではおつとめの歴史について簡単に説明します。

おつとめの意味や意義ついてはコチラをどうぞ

おつとめ・つとめの歴史

つとめを含めて一切の救済手段は、天保9年(1838年)の立教当時に、すでに親神の思惑(計画)のなかにありましたが、これを人間に教示するについては、必ずしも思惑通りにはいかず、長い年月を要しています。

つとめもまた、順序を追って教示され、その完成を急き込まれたことは、「おふでさき」に歴然としています。

最初のおつとめは神名を唱えていた。

立教以来、教祖(おやさま)は、「なむてんりわうのみこと」と神名を唱えて祈願することを教えられましたが、立教より20数年を経た元治元年(1864年)に、神殿に相当する「つとめ場所」が普請されました。

第一節・第五節のみかぐらうた

そして翌々年、慶応2年(1886年)の秋になって、「あしきはらひたすけたまへてんりわうのみこと」(第1節)という、「みかぐらうた」の地歌を教えられます。

翌慶応3年正月には、十二下り(第5節)の一下り目から三下り目までを、同年の8月までに四下り目から十二下り目までの地歌を教えられ、その後、節付け、振り付けに3年を費やされました。

明治2年(1869年)から明治15年にわたって、教祖は自ら筆をとって「おふでさき」を残され、つとめを軸にしての救済の根幹を明示されました。

まず、寄りくる人々に手振りの練習と修得を促されます。

第二節と第四節のみかぐらうた

明治3年には、

ちょとはなしかみのいふこときいてくれあしきのことはいはんでな

このよのぢいとてんとをかたどりてふうふをこしらへきたるでな

これがこのよのはじめだしなむてんりわうのみこと」(第2節)

と「よろづよ八首」(第4節)を教えられました。

かぐら面の完成・第三節を教えられる

明治7年には、「かぐら面」(お面)ができあがり、翌8年には、「かんろだい」の「ぢば」すなわち「つとめ」の勤められる地点が明かされます。

そして、「あしきはらひたすけたまへいちれつすますかんろだい」(第3節)を教えられ、これで「つとめ」の地歌はすべて教えられることになります。

さらにこの年には、「をびや」「ほうそ」など「十一通りのつとめ」も教えられました。

それとともに、「つとめ」の意義および「つとめ」の役割などについて「おふでさき」にくわしく説かれています。

明治10年に鳴物の教示と練習をすすめられ、「つとめ」の勤修を急がれました。

明治13年陰暦8月26日に、はじめて鳴物をいれてつとめをされたが、これで一応教えられた事が出来上がったとみられます。

明治14年、つとめのしんというべきかんろだいが2段までできましたが、翌15年に、この石の没収という「ふし」を契機に、手振りはもとのままながら、第3節が「あしきをはらうてたすけせきこむいちれつすましてかんろだい」と、第1節が「あしきをはらうてたすけたまへてんりわうのみこと」と改められました。

年号西暦立教教祖年齢事項
嘉永6185316年56歳こかん、浪速の街で拍子木をたたきながら神名を流す。
文久3186326年66歳辻忠作、妹くらの病に拍子木をたたきながら神名を唱えて平癒を祈る。
元治1186427年67歳10月26日つとめ場所の棟上げ翌日、大豆越村の山中忠七宅へ向かう一行が大和神社の前で、鳴物を打ち鳴らしながら、神名を唱えた。
慶応2186629年69歳秋、「あしきはらひ……」の歌と手振りを教えられる。
慶応3186730年70歳十二下りの歌と手振りを教えられる。
慶応4186831年71歳お手振りの稽古中、多数の村人が乱暴を働く。
明治3187033年73歳「ちよとはなし」を教え、よろづよ八首を十二下りの歌の初めに加えられる。
明治6187336年76歳飯降伊蔵に命じて、模型のかんろだいを制作。
明治7187437年77歳前川宅に「かぐら面」を受け取りに赴かれる。月の26日(旧暦)には、おつとめが勤められる。
明治8187538年78歳6月29日(旧暦5月26日)、ぢば定め。「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを、また、をびや以下11通りのつとめの手を教えられる。
明治10187740年80歳琴、三味線、胡弓、の女鳴物を教えられる。
明治13188043年83歳9月30日(旧暦8月26日)、初めて鳴物をそろえておつとめ。
明治15188245年85歳前年の春以来、2段までできていたかんろだいの石が、官憲によって没収。手振りはもとのまま、「いちれつすます」のお歌が「いちれつすまして」と、「あしきはらひ」が「あしきをはらうて」と改められる。
おつとめの年表

このように、人々の成人に添って「つとめ」を教えられ、その勤修を急き込まれたのです。

特に、つとめ人衆を寄せることを急き込まれ、「おふでさき」にも

このさきハかくらづとめのてをつけて

みんなそろふてつとめまつなり

おふでさき1号10

「おさしづ」(おさしづ明治26年12月16日)にも言及されています。

明治21年以降のおつとめの歴史について

明治二十一年三月八日(陰暦正月二十六日)には、教祖一年祭を執行するが、櫟本警察分署から、祭典の中止を命じられます。

しかし、これを機に教会設置に向けて拍車がかかり、この四月には、東京において念願の教会設置の認可を得ました。

このころ、締め太鼓と鉦は台付きの現行のものに、小鼓は羯鼓にと鳴物が一部変更されている(『ひとことはなし その三』209~210ページ参照。)。

それ以前に用いていた鳴物が小じんまりしていたため、風格を持たせようと、雅楽の太鼓や鉦鼓を流用したようです。

また、この年の十一月一日付で『御かぐら歌 全』が、初の公刊本として東京で刊行されます。

教会本部の認可後の教勢の伸展はめざましく、燎原に火を放つがごとく全国に急速に伸び広がっていきます。

官憲の目には、それが“脅威”と映ったのか、次第に取り締まりが厳しくなり、それが顕著な形としてあらわれたのが、いわゆる“秘密訓令”です。

明治二十九年三月、教祖十年祭が執行された直後の四月六日、内務省訓令甲第十二号が発布された。

これは天理教の取り締まり強化を目的とした内容で、全国各地でさまざまな弾圧が行われ、信仰活動のうえに全教的に大きな打撃を受けました。

さらに、内務省は、神道本局を通じて教義の内容変更を強制してきます。

それを拒否すれば、解散をも命じかねない強硬手段を突き付けてきたそうです。

これに対処するため、本部では連日役員会議が開かれ、五月十八日の会議案について、二十日におさしづを仰ぎました。

おつとめに関しては、以下の三点があげられている。

  • 朝夕の御勤今日より「あしきはらい」二十一遍を止め、「ちよとはなし」一条と「かんろだい」の勤三三九遍とに改めさして頂き度く願
  • 月次祭には御面を据えて、男ばかりで「ちよとはなし云々」、「かんろだい」二十一遍とを勤めさして頂き度く、次に十二下りを勤めさして頂き度く、鳴物は男ばかりにて、女の分は改器なるまで当分見合わせ度く願(第三は略)
  • 第四、天理王命の御名、天理大神と称する事願

第一節が止められたのは、末尾に「天理王命」の神名を唱えるからだと思われます。

女鳴物に関しては、翌三十年には、三味線を薩摩琵琶に、胡弓を八雲琴に代えられています。

明治三十九年には、「みかぐらうた」を死守するための便法として、「神の御国」が制定されました。

これらの処置は、昭和九年まで続き、時局にともなって、第二次大戦の終結までさまざまな干渉の手が入ることになります。

朝夕のおつとめの復元

朝夕のおつとめが復元されたのは、大正五年(一九一六年)十月二十六日のこと。

昭和五年(一九三〇年)の夏には、「管長様、御母堂様、古老の先生方を中心に『おてふり』の御手合せ」(山沢為次「教祖様御伝編纂史」『復元』第10号。管長とは真柱の当時の呼び名で、御母堂とは二代真柱の母中山たまへのこと。)が行われます。

九月には教学部(大正9年2月24日、天理教教庁内に発足。天理教教学に関する統一、指導にあたった。)管内のおてふり関係講師の手直しが行われている。

この際、

「従来、一下り目毎に『てんりわうのみこと』ととなえていたのを、今後は『なむてんりわうのみこと』ととなえる事になった。その他四五カ所手直ししたが、これは教祖時代の型にかえったものなり」(「二代真柱中山正善年譜」『復元』第42号。)

と、本来の姿に復元されている。

昭和八年十月二十五日に教祖殿新築落成奉告祭が執り行われ、翌九年四月十八日には、教祖御誕生祭が始まりました。

参拝者による「みかぐらうた」の唱和が許されるようになったのは、この時からです。

また同年秋には、神殿改築と南礼拝場増築の普請が完成しています。

これにともなって、明治二十一年の教会認可以降に祀られていた神道のお社が取り払われるに至りました。

そして、十月十五日には、真座を整備し、木製ながら教えどおりの寸法の雛形かんろだいが初めて据えられました。

立教以来、九十七年目の出来事でした。

同十月二十五日に執行された神殿改築・南礼拝場増築落成奉告祭では、久々につとめ人衆がお面をつけ、かんろだいを囲んでかぐらづとめを勤めたました。

翌二十六日の秋季大祭には、鳴物が復元されました。

こうして、おつとめ完修への歩みは、着実に進められてゆきます。

そして迎えた教祖五十年祭は、昭和十一年一月二十六日から二月十八日まで(この年の二月十八日が、陰暦正月二十六日にあたったため。)、年祭期間中毎日、かぐら・てをどりが勤められた。

これは、以降、教祖年祭ごとに百年祭まで踏襲されることになります。

翌十二年には、立教百年を数えるが、十月二十六日の秋季大祭から立教百年祭が執行された十一月二十八日(陰暦十月二十六日)までの毎朝、本づとめが勤められました。

このように進められたおつとめの復元ですが、いわゆる“革新”によって、昭和十三年十二月の月次祭から再び、かぐらづとめにお面着用を中止しています。

さらに四月一日には、『新修御神楽歌』(よろづよ八首、三下り目、五下り目を省略)が刊行されることになります。

それは、元初まりの話とかかわる内容が、記紀神話に抵触するとの理由からであったと考えられる(よろづよ八首、三下り目「ひのもとしよやしきの つとめのばしよハよのもとや」「もとのかみ」「じつのかみ」、五下り目「もとのぢば」などの言葉をはじめ全体の内容が、記紀神話を冒涜する教説を含んだ言葉とみなされたため)。

昭和二十年、終戦にともない、復元が提唱され、十月二十六日の秋季大祭では、お面を着用してのかぐらづとめと、よろづよ八首、三下り目と五下り目のそろった十二下りのてをどりが復元しています。

また、教祖六十年祭の記念に「みかぐらうた」本が各教会に下付されました。

二十二年四月には、教会本部神殿に掲額されていた「信徒参拝心得」を「みかぐらうた」の「よろづよ八首」に改められた(信徒参拝心得」は明治39年2月17日から。現在、南礼拝場に掲げられている「よろづよ八首」は松村吉太郎の筆による)。

二十四年の教祖誕生祭から、慶祝旬間中に毎日、つとめが行われるようになる(昭和六十年まで)。

おつとめに込められている理の角目

つとめにこめられている理の角目については、

  • 「かぐらづとめ」
  • 「かんろだいのつとめ」
  • 「よふきづとめ(ようきづとめ)」
  • 「たすけづとめ」

という四つの呼び名によって、わかりやすく理解しやすいように説かれています。

「つとめ人衆」が、親神の人間創造の理をかたどって、かぐら面をつけて勤められるところから、かぐらづとめといわれます。

かぐらづとめには、「てをどり」が伴います。

そして、

つとめでもどふゆうつとめするならば

かんろふだいのつとめいちゞよ

おふでさき10号21

と、人間宿し込みのぢば・かんろだいを囲んで勤められるところから、かんろだいのつとめと教えられています。

このつとめは、

ちやつんであとかりとりてしもたなら

あといでるのハよふきづとめや

おふでさき2号3

と教えられているように、親神の思召さながらの陽気づくめを如実にあらわし、その成就を願うよふきづとめです。

しかも、

それゆへにたすけづとめがでけんから

月日の心なんとさんねん

おふでさき8号6

といわれるように、人間のあらゆる身上の患い(病)や事情の悩みをたすけてくださり、ゆたかな稔りや平和の栄えなど、親神のめぐみを広く世界に及ばされるたすけづとめであると教えられています。

このように、つとめとは、人間創造のぢば・かんろだいを囲んで勤められるということです。

そこに、視神の人間世界創造の守護があらわれ、陽気ぐらしの道がもたらされるのです。

そこで、親神の思召のつとめ人衆が、一手一つにみんな揃って、澄み切った誠真実の心となり、陽気に勇んで、それぞれの役割を手振りにあらわして勤められるのです。

つとめには、地歌、鳴物、おつとめ衣、扇(扇子)なの諸々の道具立てがありますが、教えられたとおりつとめるところに自由自在のたすけがあたえられるのです。

また、このつとめは、

このよふをはじめかけたもをなぢ事

めづらし事をしてみせるでな

おふでさき6号7

このよふをはじめてからにないつとめ

またはじめかけたしかをさめる

おふでさき6号8

といわれるように、親神が紋型もないところから人闇世界を創められた元初まりのめずらしい働きを、たすけ一条のうえにあらわそうとして教えられたつとめなのです。

つとめさいちがハんよふになあたなら

天のあたゑもちがう事なし

おふでさき10号34

つとめは信仰生活の基本であって、昔より「お道」(天理教)に入信した人々は、教理の話を聞くと共に、朝夕のつとめができるように、つとめを練習します。

おつとめの歴史のかんたんなまとめ

おつとめは年限と共に、だんだんと人間に教えられた。

①親神がこの世に現れた目的の一つである「たすけ」(救済)を実現するために教えられたつとめにこめられている理の角目については、

  • 「かぐらづとめ」
  • 「かんろだいのつとめ」
  • 「よふきづとめ(ようきづとめ)」
  • 「たすけづとめ」

という四つの呼び名によって、わかりやすく理解しやすいように説かれていること。

おつとめの意味や意義ついてはコチラをどうぞ

また、みかぐらうたについてはコチラ

参考文献

かなり詳しく載っていて、とても勉強になります。

みかぐらうたの世界をたずねて