162.親が代わりに

教祖は、平素あまり外へは、お出ましにならなかったから、足がお疲れになるような事はないはずであるのに、時々、「足がねまる。」とか、「しんどい。」とか、仰せになる事があった。ところが、かよう仰せられた日は必ず、道の子供の誰彼が、意気揚揚として帰って来るのが、常であった。そして、その人々の口から、「ああ、結構や。こうして歩かしてもろても、少しも疲れずに帰らせて頂いた。」と、喜びの声を聞くのであった。これは、教祖が、お屋敷で、子供に代わってお疲れ下された賜物だったのである。神一条のこの屋敷へ帰って来る子供が可愛い余りに、教祖は、親として、その身代わりをして、お疲れ下されたのである。ある時、村田イヱが、数日間お屋敷の田のお手伝いをしていたが、毎日かなり働いたのにもかかわらず、不思議に腰も手も痛まないのみか、少しの疲れも感じなかった。そこで、「あれだけ働かせてもらいましても、少しも疲れを感じません。」と、申し上げると、教祖は、「さようか。わしは毎日々々足がねまってかなわなんだ。おまえさんのねまりが、皆わしのところへ来ていたのやで。」と、仰せられた。

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