104.信心はな

明治15年9月中旬冨田伝治郎(註:当時43才)は、当時15才の長男米太郎が、胃病再発して命も危ないという事になった時、和田崎町の先輩達によって、親神様にお願いしてもらい、三日の間に不思議な助けを頂いた。その御礼に生母の藤村じゅん(註:当時76才)を伴って初めておぢば帰りをさせて頂いた。やがて取次に導かれて、教祖にお目通りしたところ、教祖は、「あんたどこから詣りなはった」と仰せられた。そこで「私は兵庫から詣りました。」と申し上げると、教祖は、「さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ。」と、仰せ下され、次いで「あんた、家業は何なさる。」と、お尋ねになった。それで「はい、私は蒟蒻屋をしております。」とお答えした。すると教祖は「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら高う買うて安う売りなはれや。」と、仰せになった。そして、尚つづいて、「神さんの信心はな、神さんを、生んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」とお教え下された。ところが、どう考えても「高う買うて、安う売る。」という意味が分からない。そんなことをすると、損をして、商売が出来ないように思われる。それで、当時お屋敷に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売るときには、利を低うして比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である。」と諭されて、初めて「成る程、」と得心がいった。この時、お息紙とハッタイ粉の御供を頂いてもどったが、それを生母藤村じゅんに頂かせて、じゅんは、それを三木町の生家へ持ちかえったところ、それによって、ふしぎなたすけが相次いであらわれ、道は播州一帯に一層広く延びて行った。

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