明治二十年十二月一日(陰暦十月十七日)
山田伊八郎身上願(十月一日より足付け根疼くに付伺)
いかなる処、さあ/\いかなる処よう聞き分けにゃならんで。さあこれまでの難渋の道筋、さああちらからもこちらからも、又けんにょむない処からも、どうともいろ/\の難し処もすうきりと遁れたるで。さあ身の障りの処、さあ神の道については、いろ/\心尽して居ると思うのに、こうあちらこちらいこう障り付いては、どういうものやと思う処、世界中人間は一列兄弟。一列は神の子供や。そちの身も一人はいちぶんのし。神からは子供に難儀さしたい、不自由さしたい、困らしたいと思う事は更に無し。人間も我が子三人五人八人が一人でも同じ事。親の心に隔てがあろう。この理をよう思やんしてみよう。神の心に隔ては更に無し。それ隔てられる隔てられん、隔てんならんの一つは前生種により、一つは我が心にもよる。さあ世界を見よ。不自由もあり難儀もあり、痛み悩みもいろ/\ある。これから思やんして、何事もたんのうが第一。さあ何事にも理を尋ねようと思うなら、何なりと、さあ尋ねるがよい。
過日、「道に応じてのこうのう」と仰せられしは、いかなる事にや伺
どんな事にも内々の事なら、三日送ろうと五日送ろうとまゝのもの。外の事であれば、そりゃ二日送ろう三日送ろうは、言て居らりょまえ。
沢山な水にて少しの濁り水を入りたとて、何処濁りたように無し。この水は用いらりよ。
少し水ならば、少しの濁り水にても、これは一面に濁ろう。この理をよう思やんしてみよう。
心に合わん気に合わんという事は、いつも心に合わん気に合わんと言うて居た分にゃ、いつも心にも合わにゃ気にも合わん。その気にも心にも合わん処だけ除りたなら、心にも合や気にも合う。さあこゝをよう思やんして、人の悪き処だけ除りて我が心包み、善き処だけ出して、何事も事治めるよう。