108.登る道は幾筋も

今川清次郎は、長年胃を病んでいた。法華を熱心に信仰し、家に僧侶を請じ、自分もまたいつも祈祷していた。が、それによって、人の病気は救かることはあっても、自分の胃病は少しも治らなかった。そんなある日、近所の竹屋のお内儀から、「お宅は法華に凝っているから、話は聞かれないやろうけれども、結構な神様がありますのや。」と、言われたので、「どういうお話か、一度聞かしてもらおう。」ということになり、お願いしたところ、お道の話を聞かして頂き、三日三夜のお願いで、三十年来の胃病をすっかり御守護頂いた。明治十五年頃のことである。それで、寺はすっきり断って、一条にこの道を信心させて頂こうと、心を定め、名前も聖次郎と改めた。こうして、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた時、教祖は、「あんた、富士山を知っていますか。頂上は一つやけれども、登る道は幾筋もありますで。どの道通って来るのも同じやで。」と、結構なお言葉を頂き、温かい親心に感激した。次に、教祖は、「あんた方、大阪から来なはったか。」と、仰せになり、「大阪というところは、火事がよくいくところだすなあ。しかし何んぼ火が燃えて来ても、ここまで来ても、ここで止まるということがありますで。何んで止まるかと言うたら、風が変わりますのや。風が変わるから、火が止まりますのや。」と、御自分の指で線を引いて、お話し下された。後に、明治二十三年九月五日(陰暦七月二十一日)新町大火の時、立売堀の真明組講社事務所にも猛火が迫って来たが、井筒講元以下一同が、熱誠こめてお願い勤めをしていたところ、裏の板塀が焼け落ちるのをさかいに、突然風向が変わり、真明組事務所だけが完全に焼け残った。聖次郎は、この時、教祖からお聞かせ頂いたお言葉を、感銘深く思い出したのであった。

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